上毛郡(読み)こうげぐん

日本歴史地名大系 「上毛郡」の解説

上毛郡
こうげぐん

豊前国中央部に位置し、西は築城ついき郡、南から東は下毛しもげ郡に接し、北は周防灘に臨む。近世の郡域はおおよそ現在の豊前市(北西端部を除く)および築上ちくじよう吉富よしとみ町・新吉富村大平たいへい村に相当する。古代は「かみつみけ」、中世以降は「こうげ」と称されたとみられる。

〔古代〕

上毛郡を「和名抄」のうち東急本・元和古活字本は「加牟豆美介」、名博本は「カンツミケ」と訓じており、「延喜式」民部上の傍訓は「カムツミケ」と記している。大宝二年(七〇二)の豊前国戸籍(正倉院文書/大日本古文書(編年)一)に「上三毛郡」の「塔里」と「加自久也里」とあり、これが郡名の初見である。「日本書紀」景行天皇一二年九月五日条に「耳垂と曰ふ。残ひ賊り、貪り婪きて、屡人民を略む。是御木木、此をば開と云ふ。の川上に居り」とあり、「御木」(みけ)に「耳垂」とよばれる勢力があった。この「御木」は上毛郡・下毛郡であろう。「筑後国風土記」逸文(釈日本紀)によれば、継体天皇二一年から翌年にかけての磐井の乱後、磐井は独り「豊前国上膳県」に逃れたというが、上膳県は当郡であろう。現太宰府市の観世音寺にある七世紀末から八世紀初頭のものとされる梵鐘(国宝)にみえる「上三毛」は当郡をさすと考えられる。「和名抄」には山田やまだ炊江かしきえ多布とう上身かみつみけの四郷がみえる。郡内の条里は現在の山国やまくに川の左岸、佐井さい川・岩岳いわたけ川・なか川の下流域の沖積地に施行されており、方位の違う五地区に区分されていたと考えられる。天平一二年(七四〇)に起きた藤原広嗣の乱に際しては、追討軍側に帰順した上毛郡擬大領紀宇麻呂など三人が共謀して賊徒を斬っている(「続日本紀」同年九月二五日条)。上毛郡には宇佐宮の封戸「壱百烟」が設定されていたが、のちに根本所領の御封田二七二町・佃一三町五段三〇・用作二〇町三〇となる。長元四年(一〇三一)に上毛郡などに散在する御封田と交換し築城郡角田すだ(現豊前市)・田川郡勾金まがりかね(現香春町)が立券、天喜二年(一〇五四)には規矩きくぬき(現北九州市小倉南区)も同じく立券され、ほかに散在常見名田として田三〇〇余町、浜田相博二〇町、多布原とうばる(現大平村)畠地五〇町があった(以上「宇佐大鏡」)求菩提くぼて山は養老四年(七二〇)鎮護国家の道場として開山したとされ、一二世紀中期に頼厳によって再興されたという。普賢ふげん窟からは康治元年(一一四二)の銘をもつ銅板法華経・銅筥(九州歴史資料館蔵)が発掘され、山頂付近からは多くの経筒が発見されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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