上太田村(読み)かみおおたむら

日本歴史地名大系 「上太田村」の解説

上太田村
かみおおたむら

[現在地名]盛岡市上太田

東流する雫石しずくいし川の南岸に位置し、西は猪去いさり村・つなぎ村。古くは太田村と称し、貞享(一六八四―八八)頃に当村および中太田村・下太田村に分村したという(管轄地誌)。戦国期には太田靭負の居所とされる太田館があり(「奥南盛風記」県立図書館蔵)、現在も土塁がたて曹洞宗大松だいしよう院の境内に残る。元和二年(一六一六)の南部利直書状(花巻四戸文書)に大田ほかの地がみえ、盛岡藩二代藩主利直は前年の飢饉に対処するため、これらの地に検見役を派遣し、農料の種子給付および免税、六月中の諸役停止を指示している。その中に種籾をもたない者への支給について、夏蒔を冬の飯米にすることが記される。

上太田村
かみおおたむら

[現在地名]東和町太田おおた岩代いわしろ町上太田

下太田村の南に位置し、阿武隈川の支流広瀬ひろせ川およびこれに流入する細流によって浸食された狭小な谷底平野に水田が散在し、丘陵の緩斜面に畑地や集落がある。東は北戸沢きたとさわ村・南戸沢村、西は上長折かみながおり(現岩代町)、南は西新殿にしにいどの(現同上)。天正一四年(一五八六)九月五日の伊達政宗安堵状(橋元家文書)によると「おほ田」のうち「おかた在家年貢七貫文之所」が本田平二左衛門に与えられており、「おかた」は当地の字岡田おかだに比定される。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に上太田とみえ、高一千五一五石余。慶長一六年(一六一一)一二月の田地証文(松藩捜古)によれば、野田の与三郎が「上太田村岡田之内ゑつうはき田畠」を永楽銭一貫三〇〇文で長折村箱石はこいし(現岩代町)の平内に売渡しており、証文中にみえる「高畑」「そんきう(存)」「ひろせ」「岡田」「ゑつら(絵面)」などは現在も小字名として残る。宝暦一〇年(一七六〇)二本松領郷村高辻帳(福島県史)では本田高一千五〇五石余。減少した一〇石は当地の住吉神社へ寄進されたと思われるが記録はない。

上太田村
かみおおだむら

[現在地名]茂原市上太田

下太田村の西に位置し、村の南部にある茗荷沢みようがさわ堰から阿久あく川の源流が北流し、流路を東に変える。中世は下太田村とともにおおだ郷に含まれていた。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳では上大田村とみえ、高七五〇石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では旗本の疋田領三〇〇石・河内領二〇〇石・滝川領二〇〇石の相給。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では一宮藩領・多古藩領、旗本石川・河内領の相給で、家数八〇。

上太田村
かみおおたむら

[現在地名]原町市上太田

太田川北岸に位置し、対岸は矢川原やがわら村。東は南北に走る浜街道を境に中太田村に接する。「奥相志」に「北は野馬原に接し散馬除堤有り、(中略)街路原に入るところに柵門有り、葉山の木戸と曰ふ」と記され、木戸は羽山はやま木戸をさす。中世から近世初期にかけては太田村の内で、大田村とも記される。明暦二年(一六五六)当村および中太田村・下太田村に分村(相馬藩政史)

南北朝期と推定される相馬一族闕所地注進状案(相馬文書)によると、胤村―胤氏―五郎左衛門尉師胤に伝領された所領について「一分跡、行方郡内大田村土貢六十貫文、又同郡吉名村土貢四十貫文、先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之」と記される。

上太田村
かみおおだむら

[現在地名]太子町上太田

太田山田おおだやまだ村から山を越えて北西に位置する。慶長国絵図に「上大田」とみえる。慶長一八年(一六一三)の揖東郡村々高覚(三木家文書)には上太田村とあり、同一三年の高八四九石余。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では高四三一石余。当村のほかに上太田出屋敷二ヵ村(太郎左衛門捌・甚左衛門捌)が別に高付されている。

上太田村
かみおおたむら

[現在地名]矢板市上太田

下太田村の北に位置し、東部を大江おおえ川、西部をなか川が南流する。中世に塩谷氏家臣岡本正重の居城まつみね(松小屋城)があった。一説では正保三年(一六四六)に太田村が上下に分村したという。慶安郷帳では高二五九石余、田方二〇九石余・畑方四九石余、幕府領元禄郷帳では旗本水野領、高三七五石余。

上太田村
かみおおたむら

[現在地名]旭村上太田

大谷おおや川東岸の丘陵上にあり、西は大谷川を挟んで田崎たさき村、北は下太田村。江戸時代は天領で、元禄郷帳の村高は二三八石余、幕末は二四九石余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報