三条町(読み)さんじようまち

日本歴史地名大系 「三条町」の解説

三条町
さんじようまち

[現在地名]三条市ほん町一―六丁目・八幡はちまん町・もと町・東裏館ひがしうらだて一丁目・西裏館にしうらだて一丁目・あら町一丁目・由利ゆり神明しんめい

五十嵐いからし川と信濃川の合流部に開けた町場で、北は荒町あらまち村・裏館村、東はいち木戸きど村、南は五十嵐川を隔てて四日町よつかまち村と接する。一四世紀初頭に成立したとみられる大中臣氏略系図(桐村正春家蔵)に「越後国三条庄」とみえるのをはじめ、「時衆過去帳」に「越後三条」、永徳二年(一三八二)の僧都覚有一跡配分目録(米良文書)に「三条七日市場」がみえ、またしまノ城とともに三条の地名の記される史料などもある。しかし近世初期、城地の移動や廃城に伴う町場の移動、呼称変更などがあり、中世の史料にみえる「三条」は、必ずしも近世の三条町に連続しない。

〔三条町の成立〕

近世の三条町は裏館村明細書(文化八年、三条市立図書館蔵)によると、三条藩廃藩後、幕府領時代に三条城回りの空屋敷や畑地を開発して町場化したことに始まる。これは寛永(一六二四―四四)中頃より正保年間(一六四四―四八)にかけて、かつての城下三条町(のちの三条村、さらに裏館村と改称する)や周辺農村から引越した小前層を中心に行われ、河川合流部という立地からしだいに商人も増えた。しかしこの時代は、本村の三条村からの「三条出新田」または「三条新田」とよばれていた。慶安二年(一六四九)村上藩領となる。開発も進み町並もできた三条出新田は、同年から同四年まで三ヵ年の平均上り米(年貢)が八六石となり、定免五ツとして承応元年(一六五二)一七二石と高入れされた。これは「三条町地子」ともされており、実質的には町場と認められていた(裏館村明細書)

本村から独立したのは万治元年(一六五八)の検地からである。この検地帳(三条市立図書館蔵)は「御検地帳写 三条町」と表紙にあるが、もとは「三条新田田畑検地帳」であったとみられる。村高一五九石四斗余、田は七畝余だけで、ほとんどが畑方(二一町七反余)で、そのうち屋敷は九町九反余、合せて三一八軒。

三条町
さんじようちよう

中京区新町通三条下ル

南北に通る新町しんまち(旧町尻小路)を挟む両側町。北側は三条通(旧三条大路)に、南側は六角ろつかく(旧六角小路)に接し、東は了頓図子りようとんのずし西側に至る。

平安京の条坊では、左京四条三坊一保一町東及び同八町西。平安中期以降は三条町尻小路の南にあたる。

三条町尻小路は、南北朝前後から京洛座商業の中心地として発展した。室町時代祇園社領がここにあり、年次不詳の祇園社執行宛飯尾為衡書状(祇園社記)にも「当社領三条町与六角間東頬屋地」とみえる。祇園社に属する綿座・米座・小袖座・袴座・堀川材木座などの諸商人は、三条・四条間、烏丸・西洞院間にそのほとんどが居住し、特に三条町は、座商人の政治・経済的勢力を規制しようとした幕府と町衆の団結力とが衝突する場であった。天文一一年(一五四二)六月一八日、幕府は三条町の喧嘩によって祇園社に人夫の徴発を課し(祇園社記)、同一四年六月一一日には山警固衆が喧嘩、幕府雑色一名を殺し、報復として細川晴元内衆に焼打されている(厳助往年記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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