三方西(読み)みかたのさい

日本歴史地名大系 「三方西」の解説

三方西
みかたのさい

中世の地名三方庄(現一宮町)に対しての呼称で、三方東みかたひがし(現同上)に対し三方西郷とも記される。

〔丹党中村氏〕

正和五年(一三一六)六月二七日の関東下知状(中村甚太郎家文書)によると、鎌倉幕府が中村八郎法師道覚の後家尼音阿に武蔵国三山さんやま(現埼玉県小鹿野町)内の屋敷一所、「三方西小野村」内の田七段二〇歩・在家一宇・御薗田三段を安堵した。このうち田一町二〇歩は小野おの村の在家一宇に付属するもので、三方西小野村の一村地頭職を意味し、もと中村馬允光時の所領であった。光時の死後は後家尼光阿が相続し、正応三年(一二九〇)八月二日に幕府の承認を受けている(以上「関東下知状」同文書など)。永仁三年(一二九五)二月二〇日、光阿はこれを音阿の子息十郎家政に譲り、同年六月二日に家政が音阿に譲与した。ところが中村馬三郎時広がこれを押領し、時広の死後もその子息新三郎宗広・薬師丸が押領を続けていた。時広は光時の子息で、三方西の大部分の地頭職を有していたのではなかろうか。以上は地頭職をめぐる一族の相論で、訴訟の結果音阿の言い分が通り、小野村は音阿知行として認められた(以上、正和五年前掲関東下知状)

元応二年(一三二〇)音阿は三方西小野村などの所領を養子丹治孫一丸へ譲った(「尼音阿所領譲状」中村家文書)。しかし「けんこう二年」三月一二日の中村宗広所領譲状案(同文書)によると、宗広が「三かたのさいをゝのゝむら三つくにミやう」(三方西小野村光国名)の地頭職・山野田畠を女子一御前に一期分として譲っており、死後は孫「ますはう丸」に伝えることを条件とし、比丘尼「しやうけん」の御房たちの御分二人に年貢の用途配分をするようにと指示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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