一宮城跡(読み)いちのみやじようあと

日本歴史地名大系 「一宮城跡」の解説

一宮城跡
いちのみやじようあと

[現在地名]徳島市一宮町

鮎喰あくい川右岸、一宮町西部にある徳島県で最大級の山城跡。鎌倉時代の守護小笠原氏の一族が、南北朝時代初めにここに築城し一宮氏と改称したとされているが確証はない(名西郡神山町の→一宮。一宮氏は南朝方に属して活躍しているが(観応三年五月二〇日「飯尾吉連等軍忠状写」碩田叢史など)、その後守護細川氏の被官になって戦国時代まで続いた。天文(一五三二―五五)末頃に細川氏にかわって三好義賢(のち実休)阿波国の実質的な支配権を握るが、この頃一宮城には一宮長門守成祐(成助)が在城し、義賢の妹を妻とするなど三好家臣団中でも有力な地位を占めていた。鎗場の合戦や和泉久米田くめた(現大阪府岸和田市)での合戦でも義賢方として戦っている(「昔阿波物語」など)。「古城諸将記」には「諸城中ニテ大身ナリ」と記される。しかし天正四年(一五七六)一二月細川真之が勝瑞しようずい(現藍住町)を脱出して那賀なか仁宇にう谷に籠ったことから、成祐も細川方となり、翌五年三月(天正四年一二月二七日説もある)には伊沢頼俊らとともに三好長治長原ながはら(現松茂町)で自刃に追いやった(みよしき・昔阿波物語)。一宮氏はこの頃から土佐の長宗我部元親にも通じていた(「南海通記」など)。その後一宮城は三好氏との攻防の舞台となり、一宮氏は三好方に圧迫されて、同年秋から一宮城を捨てて大粟おおあわ山の焼山寺しようざんじ(現神山町)へ逃亡した(昔阿波物語)

天正七年一二月、すでに長宗我部方に降っていた岩倉いわくら(現脇町)城主三好徳太郎とわき(現同上)城主武田上野亮が脇城外の戦で三好方の主力を破ると、同月二七日一宮氏は大西おおにし(現池田町)から一宮城に帰った。

一宮城跡
いちのみやじようあと

[現在地名]一宮町一宮

一宮に築かれた中世の城跡。弘治元年(一五五五)北条氏が里見義尭を攻めた際、里見方の一宮城主須田将監は久留里くるり(現君津市)に籠城、北条氏に内通したことが露見し義尭に討たれたという(総州久留里軍記)。永禄八年(一五六五)里見氏重臣の勝浦かつうら城主正木時忠が北条氏と通じて東上総一帯を勢力下に置いたとき当城には時忠の一族正木大炊助が在城していたが、時忠の子時通に攻略されたといわれる。以後正木氏の居城となり、天正三年(一五七五)北条方の軍勢は土気とけ(現千葉市緑区)東金とうがねで刈取った兵粮米一四〇俵などを一宮城を守る正木藤太郎・松田某に送っている(同年八月二三日「北条家朱印状写」相州文書、同月二八日「北条氏政書状写」清水文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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