一乗院跡(読み)いちじよういんあと

日本歴史地名大系 「一乗院跡」の解説

一乗院跡
いちじよういんあと

[現在地名]坊津町坊

鳥越とりごえ集落にある寺院跡。明治二年(一八六九)廃仏毀釈によって廃寺となる。跡地には現在坊泊ぼうとまり小学校が建つ。東に春日かすが山、西にはく山を控え、南はおくいん川を境に霧島きりしま山に面している。集落中央部の丘陵地にあって、南西に坊津浦を望む。旧境内は整地され、南校門横に仁王像、校舎北側上段に中興以降の上人墓があり、昭和五七年(一九八二)発掘の石畳が保存されている。寺跡全域は県指定史跡。

〔寺歴〕

以下の寺歴は「三国名勝図会」「一乗院来由記」などによる。寺名は西海金剛峯如意珠山龍巌りゆうがん寺一乗院。真言宗に属し、本尊は虚空蔵菩薩、開基は百済国の日羅、中興開山は成円。敏達天皇一二年日羅が来朝して創建。うえぼんなかぼうしもぼうの三坊を建て、手刻の阿弥陀像三躯を三坊に安置、鳥越山龍巌寺と称し、敏達・推古両天皇の御願所となる。一説にこれがぼうの地名の由来という。長承三年(一一三四)一一月三日に鳥羽上皇が院宣を下し、紀州根来ねごろ(現和歌山県岩出町)の別院として如意珠山一乗院の勅号を与えられ、西海の本寺となる。文和三年(一三五四)成円が京都に上り、京都仁和寺の寛性法親王に従って広沢流の真言秘法を受け、虚空蔵大士像を与えられて本尊とした。成円は将軍足利尊氏に謁して寺院の再建を請い、延文二年(一三五七)中興開山第一祖となる。四世頼俊は応永一五年(一四〇八)根来寺を辞する時に仏像・経典を得て、これを宝蔵して密法を一新し、当寺は全盛期に入る。文明一〇年(一四七八)六世頼政は島津立久の許可を得て灌頂道場を建て、虚空蔵菩薩・毘沙門天を安置、客殿を再建する。七世頼全は大永二年(一五二二)に山門を建立、金剛力士像を安置。八世頼忠の代には、島津貴久が薩摩に来ていた畠山重国とともに頼忠を上洛させ、天文一五年(一五四六)三月四日に後奈良天皇より「西海金剛峯」の勅額を得て勅願所となる(「後奈良天皇綸旨」旧記雑録)。島津貴久・義久は頼忠に師事し、これより島津家と深いかかわりが続く。天正一三年(一五八五)根来寺が兵火に遭ったため、山僧覚因が経典・寺宝をもって一乗院に難を避けている。

一乗院跡
いちじよういんあと

北僧坊の北西(現奈良地方裁判所)にあった門跡寺院。天禄元年(九七〇)頃、京都東寺一の長者定昭が興福寺別当に兼補せられ創始。菅家本「諸寺縁起集」に大日如来を本尊とし、これを長講堂と号したとある。摂関家(近衛家)の子弟が相次いで入室し、大乗院とともに院家の首位に立った。中世、一乗院主は大乗院主とともに、興福寺別当として一山の寺務を執行した。また大和平野部の守護職を大乗院と分掌し、一乗院は西諸郡守護職と宇智うち・吉野両郡を管領した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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