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「ビクトリア時代」の意味・わかりやすい解説
ビクトリア時代【ビクトリアじだい】
英国のビクトリア女王の治世(1837年−1901年)全体をさすが,とりわけ英国が世界経済の覇者としての地位を誇った1840年代から1870年代初めまでを特定して,その社会,文化をさして用いられることが多い。この時期の英国社会の特色は,産業革命の恩恵をうけて工業化と都市化がいちじるしく進行したことにあり,1851年ロンドンで開催された世界で最初の万国博覧会は英国が〈世界の工場〉としての地位を確保したことを誇示するものであった。 富と実力を蓄えた中産階級の社会的進出が顕著であったが,政治の実権は依然として地主階級が握っていて,その支配は揺るがなかった。そのため中産階級の人たちの理想はジェントルマンになることに向けられていて,この時代の文化や価値観にはジェントルマンの生活観が陰を落としており,ジェントルマンの外見を模倣する紳士きどり(スノッブ)がまかり通る一方で,宗教や道徳による抑圧も強く意識され,女王の家庭生活が模範として仰がれる反面では女性の男性に対する従属は当然のこととされ,性に対する二重規範も横行した。 他方,人口の大半を占める労働者階級は依然として政治的発言力をもたず,その多くは都市のスラム街に住むのを余儀なくされており,世界の頂点にたつ英国には,互いの間にまったく交流がみられない〈二つの国民〉(B.ディズレーリの言葉)が存在しているようなありさまであった。
→関連項目アルバート
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ビクトリア時代
ビクトリアじだい
Victorian Age
ビクトリア朝とも呼ばれる。イギリス史上におけるビクトリア女王の治世 (1837~1901) 。イギリスが世界で優位を保ち,国内では自由主義が発達した時代。政治では自由党と保守党による政党政治が行われ,議会改革が進められて (1867,84) ,政治の民主化をみた。経済ではイギリスは「世界の工場」として繁栄。自由貿易主義をとり,穀物法を廃止,英仏通商条約などを締結。しかし 1870年代からは大不況に見舞われ,社会面では労働組合が発展,公認される一方,初等教育法 (71) により国民教育が普及した。対外的にはアジア,アフリカにその勢力を広げると同時に,カナダなど白人植民地には自治を承認。強力な海軍力とヨーロッパ列強の勢力均衡を背景に,パックス・ブリタニカと呼ばれる平和を享受した。イギリスにとって繁栄と栄光の時代であったが,アイルランド問題では W.グラッドストンが議会に提出した自治法案が否決され,問題を後世に残した。
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ビクトリアじだい【ビクトリア時代 Victorian Age】
字義どおりには,1837年から1901年に至るイギリスのビクトリア女王の治世をいう。だが通常は,その治世の中でも,とくにイギリスが世界経済の覇者となった1840~70年代のこの国の〈黄金時代〉を含意し,しかもこの時期の生活,文化とのかかわりで用いられる。この時期のイギリス社会に顕著な一特色は,工業化と都市化が進み,それを背景に中流階級が勢力を増大させ,経済と政治の重要な担い手になったことであった。それゆえビクトリアニズムVictorianismといわれるこの繁栄期の文化にも,彼らの生活哲学が色濃く投影されている。
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世界大百科事典内のビクトリア時代の言及
【イギリス】より
…【小山 路男】
【社会】
[社会構成]
イギリスといえば〈ジェントルマンの国〉というイメージを思い浮かべることも多いであろう。とりわけ日本においてこのイメージが強いのは,日本が開国してイギリスと接触するようになったのが,19世紀後半のビクトリア時代であったことが重要な意味をもっている。すなわち当時のイギリスは〈世界の工場〉として最先進工業国たる地位を誇っていたにもかかわらず,中世以来続いた,国王を中核とし貴族と地主(両者を合わせて広義のジェントルマンという)を担い手とする支配体制はゆるぎもみせなかった。…
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