精選版 日本国語大辞典 「種の起原」の意味・読み・例文・類語
しゅのきげん【種の起原】
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C.ダーウィンによる進化論の古典的著作(1859)。正しくは《自然淘汰の方途による種の起原On the Origin of Species by Means of Natural Selection》と呼ばれるように,その内容は進化の要因が主に自然による淘汰にあるとする。当時までに,G.L.L.deビュフォン,E.ダーウィン,J.ラマルクらによって進化思想が述べられてはいたが,明確な要因については想定されていなかった。C.ダーウィンは,動物の欲求などを仮定するラマルクの説と異なり,その要因を機械的なものに求めた点に特徴がある。
家畜や栽培植物には多くの品種がある。それらの品種は,育種家が長期間にわたって生物の微少な変異に着目し,それを選択(人為淘汰)することによってつくられたものである。自然界における生物も,その体部にさまざまな小さな変異をもつ。しかも生物は生じた種子,生まれた子のごく少数しか育たないほど多産である。これは,おのおのの種の生物の間に生存闘争があることを示している。日光や水分,餌を求め,あるいは繁殖の相手を求め,敵からのがれるというような闘争の中で,少しでも有利な変異をもつ個体(適者)が生き残り,さらに繁殖する(これを人為淘汰に対して自然淘汰という)。それらの子孫は親の代より有利な変異がいっそう著しい。このようにして軽微な変異が蓄積され,やがて変種を生ずる。新しい変種は適応力の劣っている祖型を滅ぼし,それにとってかわる。生物の形態学的・発生学的観察事実,痕跡器官の存在については,おのおのの生物がより下等なものに由来ししだいに発達してきたと考えることによって,よく納得される。進化論に対して,化石が連続的でないという反論があるが,これは地質学的記録が不完全にしか保持されていないとして説明される。
初訳は,立花銑三郎により《生物始源(一名種源論)》(1896)として出された。その後,開成館訳《種之起源(生存競争,適者生存の原理)》(1905,開成館)があり,以来すべて《種の起源》の邦題で,大杉栄(1915,新潮社),松本道夫(1924,太陽堂),内山賢次(1927,春秋社),小泉丹(上1929,中1938。岩波書店)などが訳出されている。現在では八杉竜一訳《種の起原》(1963-71,初版の訳,岩波書店),堀伸夫訳《種の起原》(1958-59,第6版の訳,槙書店),R.リーキー編,八杉貞雄・守隆夫訳《図説・種の起源》(1982,平凡社)などがある。
執筆者:江上 生子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの生物学者C・R・ダーウィンの進化論についての主要著作。正確な表題は『自然選択による種の起原について』On the Origin of Species by Means of Natural Selection。ジョン・マレー社より1859年に出版。各国語に翻訳されたが、日本語では1896年(明治29)立花銑三郎(せんさぶろう)による『生物始源』(一名『種源論』)がもっとも古く、以後、大杉栄(さかえ)、小泉丹(まこと)、内山賢治、石田周三、堀伸夫、徳田御稔(みとし)、八杉竜一などによる翻訳がある。
ダーウィンが種の起原について関心をもったのはビーグル号航海(1831~1836)のときであるから、着想から著書の出版まで二十数年かかった。彼は1842年に33歳のとき自説の概要をノート35枚に覚え書きにした。1856年に『種の起原』の著作にとりかかったが、2年後にA・R・ウォーレスから受け取った論文の内容が自説とほとんど同じであったので、同年7月のロンドンの学会で共通の表題で連名で発表した。その後ダーウィンは新たに稿をおこし、1859年に刊行したのがその初版本である。
本書は、初版では14章、第6版(1872刊)では1章増えて15章から構成されている。その内容はまず人為選択(人為淘汰(とうた))から始まる。古くから栽培植物や家畜が改良されてきたが、育種家は生物のわずかな変異をみいだし、それをもとに選択を行い改良を行った。ダーウィンは本書初版では変異の原因は外的条件であると述べているが、6版ではこの点が改変され、外的条件は生物の本性に比べると副次的なものであるといっている。次に、自然界でも生物のいろいろな部分に微少な変異がおこり、それが何代にもわたって蓄積してゆき進化がおこると考えた。その原因として自然選択(自然淘汰)という概念を導入した。つまり生物の多産性によって生存競争(闘争)がおこるが、進化にとって重要なのは同じ要求をもつ同種個体間のそれであって、ごくわずかな差異でも個体の存亡を決定する。環境に対して有利な変異をもつ個体が生存し(適者生存)、長い世代の間にその変異が蓄積して進化に結果する、と彼は主張した。次に自説の難点について述べ、また生物の本能や習性の問題を論じている。以上が本書の前半であり、彼の理論の中心的な部分である。以後の章はこの理論の展開であり、補強であって、また生物学の体系における進化論の意義を論じている。
[宇佐美正一郎]
『八杉竜一訳『種の起原』全3冊(岩波文庫)』
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出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…スペンサーは生物と社会の並行的な見かた(社会有機体説)にもとづき,生物進化論と並んで社会進化論を唱えた。
【ダーウィンの進化論】
C.ダーウィンが種の起原,つまり進化についての系統的研究を始めたのは,ビーグル号航海から帰った翌年の1837年,28歳のときであり,学説の骨格も早く成り立っていたが,公表されたのは58年7月1日のリンネ学会においてである。マレー諸島滞在中のA.R.ウォーレスから送られてきた論文が,ダーウィン自身の自然淘汰説と同趣旨であり,結局,両者の論文を同じ表題のもとにおいたジョイント・ペーパーとして発表することになったのであった。…
…そして地質学者ライエル,植物学者フッカーJ.D.Hookerらのはからいでダーウィンの未発表論文の一部とアメリカの植物学者A.グレーへの手紙が,ウォーレスの論文とともにロンドンのリンネ学会で発表され,自然淘汰説がはじめて世に出た(1858)。 一方,ダーウィンは大著《自然淘汰》の要約に着手し,進化論上の古典となった《種の起原》(1859)を出版したが,《自然淘汰》は未完のままに終わり,そのはじめの部分は《家畜と栽培植物の変異》(1868)となった。残りの部分が刊行されたのは死後100年近く経た1975年である。…
…19世紀前半の信心深い中流階級の人々は,《創世記》の天地創造の説明をなおすなおに信ずることができた。だが1859年に出版されたC.ダーウィンの《種の起原》は,彼らの世界観に決定的な衝撃を与えた。ダーウィンの学説は,直ちに広く世間に受け入れられたわけではないが,着実に古い宗教的世界観を崩壊させた。…
※「種の起原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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