パテト−ラオ(英語表記)Pathet Lao

旺文社世界史事典 三訂版 「パテト−ラオ」の解説

パテト−ラオ
Pathet Lao

ラオス左派勢力
反仏民族解放運動ラオ−イッサラ(自由ラオス)を発展的に解消して,1950年8月,ラオス王族の一員であるスファヌボン殿下によって結成された。1954年のジュネーヴ協定以後はラオス愛国戦線と呼ぶ。1957年のビエンチャン協定でプーマ首相の下に連合政府が成立したが,アメリカ・タイの援助で右派勢力が台頭し,内戦となる。1973年2月ビエンチャン政府との間に和平協定が成立し,これにもとづいて74年4月に民族連合政府を樹立した。1975年4月ヴェトナム戦争が左派の勝利になったのに伴い,12月に開かれた愛国戦線主導の全国人民代表大会では,王政の廃止と連合政府の解体が決定し,ラオスは人民民主共和国となった。

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