ディーボ(読み)でぃーぼ(英語表記)Devo

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ディーボ」の意味・わかりやすい解説

ディーボ
でぃーぼ
Devo

テクノポップの原型となったアメリカのロック・バンド。オハイオ州アクロンで結成された。1970年代後半、B-52'sらと並んでアメリカン・ニュー・ウェーブを代表し、クラフトワークやイエロー・マジック・オーケストラYMO)に先駆け、テクノポップを確立した。ケント州立大学で美術を専攻していたマーク・マザースボーMark Mothersbaugh(1950― 、ギター、ボーカル、シンセサイザー)とジェラルド・V・キャッセールGerald V. Casale(1948― 、ベース、ボーカル)が意気投合し、キャッセールの2人の兄弟らを巻き込んで結成したグループが前身。当初は自分たちが製作していた自主映画のサウンドトラック用に楽曲を作っていたが、これが存外に好評をよんでライブ活動を開始。ディーボとしての正式活動は1976年からスタートした。ちなみにディーボとはディボルーションDevolution(退化)をもじったネーミング

 自主レーベル期を経て、イギリスの新興インディーズ・レーベル、スティッフ・レコードから3枚のシングルを出したのち、1978年にアメリカの大手ワーナー・ブラザーズと契約。プロデューサーブライアンイーノ、エンジニアにコニー・プランクConny Plank(1940―1987)という強力なバックアップのもと、デビュー・アルバム『頽廃的美学論』(原題Q: Are We Not Men? A: We Are Devo!)をリリース。当初は、彼らのライブを気に入ったデビッド・ボウイがプロデュースするという話もあったが、スケジュールが合わず、最終的にイーノに落ち着いた。後にディーボのメンバーは「イーノのプロデュースは過剰だった」と、このファースト・アルバムの仕上がりに不満をみせる。たしかにアルバムに先駆けスティッフからリリースされたシングルなどで聞かれるサウンドは、ずっと荒削りでポスト・パンク的な雰囲気を漂わせていた。とはいえ、アルバム全編を覆う「テクノ」ふうの質感やぎこちないポップ・センスが、彼らのイメージを決定づけたのも事実。従来のロックをアイロニカルに具体化した、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」のカバーをはじめ、「モンゴロイド」「ジョコー・ホモ」など、初期の代表作を収録。翌1979年にはセカンド・アルバム『生存学未来編』(原題Duty Now for the Future)をリリース。その直後に初来日を果たし、日本武道館で公演。初来日で武道館を満杯にしたニュー・ウェーブ・バンドは前代未聞だったことからも、当時の彼らの人気の高さと話題性のほどがうかがえよう。

 ディーボはメンバー全員が同じ髪形に同じ衣装(デビュー当初は黄色のツナギにヘルメット、そして四角い立体グラス)、ステージ上ではほぼ並列して並び、ぎくしゃくした動きでエレクトロニクスや楽器をぎこちなく操作した。クラフトワークの人形やYMOの人民服にも通じる彼らの「制服=コスチューム」には、一方では軍人や警官のような制服労働者に対するアイロニーがあり、また他方では、いわゆる長髪にGパンでステージに上がるオールド・ロッカー、あるいはそれに反抗するパンクスの逆立てた髪やスキンヘッドとも一線を引くという態度の現れでもあった。汗臭いロックン・ロールを相対化し、機械人形のように動き、メカニックなサウンドを奏(かな)で、シニカルかつコミカルな歌詞でアメリカの大衆社会を揶揄(やゆ)する……こうした彼らのスタイルがテクノポップ・ムーブメントの呼び水となったのである。

 以後、1980年に『欲望心理学』(原題Freedom of Choice)、1981年に『ニュー・トラディショナリスツ』、1982年に『オーノー! ディーヴォ』とコンスタントにアルバムを発表。奇抜さの中にも洗練が見え隠れするようになり、シンセ・サウンドの音色とビートを特色とする、いわゆるエレ・ポップ風の曲調も目につくようになっていった彼らだが、1984年の『シャウト』がセールス的にふるわず、いったん活動を停止する。1988年の『トータル・ディーヴォ』で活動再開するも、1990年の『ディーヴォのくいしん坊・万歳』(原題Smooth Noodle Maps)リリース後のツアーを最後に、恒常的な活動を休止。以後、マザースボーは映画やCM音楽製作、キャッセールは映像製作に携わり、時々思い出したようにディーボ名義でのライブを行っている。

[木村重樹]

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