テレマン(読み)てれまん(英語表記)Georg Philipp Telemann

精選版 日本国語大辞典 「テレマン」の意味・読み・例文・類語

テレマン

(Georg Philipp Telemann ゲオルク=フィリップ━) ドイツの作曲家。J=S=バッハヘンデルと並び称せられ、優美な旋律生気に満ちたリズムを特徴とする。カンタータ受難曲などの宗教曲、各種の器楽曲オペラ「ピンピノーネ」など、数多くの作品がある。(一六八一‐一七六七

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デジタル大辞泉 「テレマン」の意味・読み・例文・類語

テレマン(Georg Philipp Telemann)

[1681~1767]ドイツの作曲家。カンタータ・受難曲・オペラ・管弦楽組曲室内楽曲など、多くの分野に作品を残した。器楽曲集「食卓の音楽」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「テレマン」の意味・わかりやすい解説

テレマン
てれまん
Georg Philipp Telemann
(1681―1767)

ドイツ・バロックの作曲家。当時はバッハ以上の人気を誇り、ドイツ最高の作曲家とみなされていた。3月14日、中部ドイツ、マクデブルク牧師の子に生まれたが、4歳で父を亡くし、女手ひとつで育てられた。故郷のカントルに手ほどきを受けたほかは独学で音楽を学び、12歳でオペラを作曲するほどの早熟ぶりだったが、将来を危ぶんだ家族に以後音楽を禁じられ、ツェラーフェルト、ヒルデスハイムへと転校させられた。しかしいずれも師の理解を得てひそかに音楽を続けたテレマンは、1701年、母の望みに従い、ライプツィヒ大学で法律を学ぶこととなる。ところがライプツィヒではたちまち作曲家として頭角を現し、学生ながらクーナウと並び称される音楽家として、教会音楽、オペラ、さらに自ら創設した学生音楽団体コレギウム・ムジクムの演奏と、華々しい活躍を示した。05年ゾーラウ(現ポーランドジャリ)宮廷楽長となり、リュリカンプラの器楽を知ったほか、ポーランドの民俗音楽に触れる機会も得た。

 1708年、宮廷楽長としてアイゼナハに移り、当時ワイマール宮廷オルガン奏者だったバッハと親交を結んでいる。12年フランクフルト跣足(せんそく)教会楽長となり、やがて同市音楽監督に昇進。当時作曲したブローケスの歌詞に基づいた受難曲は、彼の名声を大いに高めたものである。21年ハンブルクに移り、同市の教会音楽監督となったテレマンは、翌22年ハンブルク・オペラの監督を兼務し、国際的な名声を確立した。器楽曲集『食卓の音楽』(1733刊)の予約注文は、ドイツ各地にとどまらず、北欧、ロシア、イギリス、フランスからも寄せられるほどだった。ゾーラウ時代以来、約1000曲の管弦楽組曲、膨大な数のカンタータ、受難曲、オラトリオ、さらに『ピンピノーネ』(1725初演)に代表されるオペラなど、驚くべき多作を誇るテレマンは、また、3種の自伝を残す、機知に富んだ文筆家でもあった。67年6月25日ハンブルクに没。

[樋口隆一]

『K・グレーベ著、服部幸三・牧マリ子訳『テレマン――生涯と作品』(1981・音楽之友社)』

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百科事典マイペディア 「テレマン」の意味・わかりやすい解説

テレマン

ドイツの作曲家。J.S.バッハの同時代人で,生前はバッハをはるかにしのぐ名声を保った。生地マクデブルクなどで初期の教育を受け,ライプチヒ大学在学中の1704年,新教会のオルガン奏者兼音楽監督に就任。またクーナウとともにトマス教会のカンタータの作曲を委嘱され,学生による公開演奏団体コレギウム・ムシクムを創設。その後はアイゼナハ,フランクフルトなどの宮廷楽長を歴任し,1721年からはハンブルクに定住。聖ヨハネ高等学校のカントルに就任するとともに,市の主要教会の音楽活動に携わる〈都市音楽監督〉の地位を終生務め,また市民のための音楽会を組織するなど,ヨーロッパ全土に知られる作曲家として多方面に活躍した。音楽史上最も多作な作曲家の一人として知られ,受難曲46曲,教会カンタータ1700曲以上,オペラ40曲以上,室内楽曲350曲以上など,各分野に膨大な数の作品を残している。生前の名声にもかかわらず,19世紀以降その作品は急速に忘れ去られた。20世紀に入って再評価が進み,今日では,有名な器楽曲集《ターフェルムジーク(食卓の音楽)》(1733年)をはじめ,各種楽器のための協奏曲やソナタ,カンタータなどが広く知られるようになっている。→ソナタ
→関連項目バッハ

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改訂新版 世界大百科事典 「テレマン」の意味・わかりやすい解説

テレマン
Georg Philipp Telemann
生没年:1681-1767

ドイツ・バロックの代表的作曲家のひとり。マクデブルクに生まれる。J.S.バッハの同時代者で,生前はバッハをしのぐ名声を得た。マクデブルク,ヒルデスハイムなどで教育を受けた後は,1701年にライプチヒ大学に入学。この在学中に学生の演奏団体コレギウム・ムシクムを組織したり,新教会のオルガニスト兼音楽監督に就任したりした。1704年にライプチヒをはなれ,ゾーラウ(現在ポーランドのジャリ),アイゼナハ,フランクフルトなどの宮廷楽長を歴任。そして21年から死の67年までの46年間,ハンブルクの都市音楽監督兼ザンクト・ヨハネ高等学校カントルとして活躍した。この間,クーナウの死(1722)によって空席となったライプチヒのトマス・カントルの地位が誰よりも先にテレマンに申し出られたことは,バッハの伝記を通じてよく知られているとおりである。ハンブルク時代のテレマンは,国際的にもその名を知られていた。彼の器楽の代表作《ターフェルムジーク》(1733)の出版に当たっては,ドイツ各地ばかりか,北欧,ロシア,イギリス,フランスからも予約注文が寄せられた。テレマンは音楽史上最も多作な作曲家のひとりで,作品は受難曲46曲,教会カンタータ1700曲以上,オペラ40曲以上,室内楽曲350曲以上,協奏曲120曲,管弦楽曲140曲のほか,おびただしい数の教会音楽,宗教的作品,オラトリオがある。作風は当時のあらゆる傾向をふくみ,バロックから前古典派への変遷に重要な役割を果たした。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「テレマン」の意味・わかりやすい解説

テレマン
Telemann, Georg Philipp

[生]1681.3.14. マクデブルク
[没]1767.6.25. ハンブルク
ドイツの作曲家。 1701年法律を学ぶためライプチヒ大学に入学したが,音楽の才能が認められるようになり,新教会のオルガン奏者となった。 04年ゾーラウのプロムニッツ伯の楽長。のちアイゼナハの楽長となり,そこでバッハと知合った。 12年フランクフルトアムマインのバールフュッサー教会の楽長となり,のち同市の音楽監督をつとめたが,21年以降はハンブルクのヨハネ教会合唱長および同市の音楽監督をつとめた。作品は,46曲の受難曲,多くのカンタータ,管弦楽組曲『ハンブルクの潮の満干』『ドン・キホーテ』,3巻の『食卓の音楽』,喜歌劇『ピンピノーネ』,家庭の音楽のための小品を集めた『忠実な音楽教師』など膨大な数に上る。

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世界大百科事典(旧版)内のテレマンの言及

【バッハ】より

…物質的にも精神的にも恵まれた生活を反映するかのように,ケーテン時代の作品には生命の喜びが躍動している。
[後期(1723‐50)]
 1722年6月,ザクセンの大都市ライプチヒではトーマス教会カントルの大作曲家J.クーナウが没し,後任としてハンブルクの音楽監督テレマンやダルムシュタットの宮廷楽長グラウプナーChristoph Graupner(1683‐1760)らが候補に上がった。しかし彼らが就任を拒否したため,市参事会は〈最良の人物が得られない以上,中庸な者でがまんしなければなるまい〉と言って,23年4月にバッハの採用を決定した。…

※「テレマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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