スーダン(国)(読み)すーだん(英語表記)Sudan

翻訳|Sudan

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スーダン(国)」の意味・わかりやすい解説

スーダン(国)
すーだん
Sudan

アフリカ北東部の国。正式名称はスーダン共和国Al-Jumhurīya as-Sūdān。北はエジプト、リビア、西はチャド、中央アフリカ、南はコンゴ民主共和国(旧ザイール)、ウガンダ、ケニア、東はエリトリアエチオピアとそれぞれ国境を接し、北東部は紅海に面する。面積は250万5813平方キロメートル、アフリカ最大の国である。人口3623万(2005推計)。首都はハルトゥーム。国名のスーダンは「黒人の国」を意味するアラビア語Bilad as-Sudanに由来し、本来は南北をサハラ砂漠と熱帯雨林地域に挟まれた東西に広がる広大な地域(スーダン地方)を意味する。その最東端に位置するこの国は、国土の中央を南北に貫くナイル川によって、北のアラブ文化圏と南の黒人文化圏を結ぶ橋渡しの役割を果たしてきた。

[栗本英世]

 なお、2011年7月に南部10州が分離独立し、南スーダン共和国となった。本項の記述は南スーダン独立前のものである。南スーダンについては同項目を参照のこと。

[編集部]

自然

国土を南北に貫いて北流しているナイル川がこの国の自然を特徴づけている。国土の中央部は広大で起伏に乏しいナイル盆地である。この盆地は北部ではヌビア砂漠となってエジプトへと広がっており、北西部ではリビア砂漠へと続いている。ナイル盆地の周囲には山地が発達している。北東部の紅海沿岸には紅海丘陵、西部のダルフール地方にはマラ山(3088メートル)を主峰とするダルフール山地、南部のエクアトリア地方には、スーダンの最高峰キニエティ山(3187メートル)を擁するイマトン山地がある。また中央部のコルドファン地方には標高900メートル以上に達するヌバ山地がある。

 気候は北へいくほど乾燥している。北緯19度以北は砂漠地帯でほとんど降雨はなく、首都ハルトゥームでは年降水量は120.5ミリメートルである。これに対して南部の熱帯雨林地域では1300ミリメートルにも達する。全地域を通じて降雨はほぼ夏の3か月に集中する。気温は北部へいくほど、日較差、月較差が大きくなる。ハルトゥームでは乾期の1月がもっとも涼しく、月平均気温は22.7℃、ハブーブとよばれる砂嵐(すなあらし)の季節である5月、6月が34℃以上ともっとも暑い。南部では逆に乾期の2月がもっとも暑くなるが、月平均気温の変化は数℃以内であり、年間を通じて26~29℃である。青ナイル川、白ナイル川流域に広がる湿原、サバナは野生動物の宝庫であり、ゾウ、キリン、バッファロー、カバなどの大形野生動物が多数生息している。

[栗本英世]

歴史

スーダンは紀元前3000年ごろから古代エジプトの影響下にあった。前8世紀にはスーダンの黒人によるクシュ王国が勃興(ぼっこう)し、前730年ごろにはエジプトを征服して約70年間支配した。クシュ王国は紀元後350年ごろ、エチオピア高原から進出してきたアクスム王国に滅ぼされるまで約1000年間存続した。クシュ王国の滅亡後、北部にはヌビア、ハルトゥーム付近にはアルワという二つの王国が勃興した。両王国は6世紀にキリスト教を受容し、キリスト教文化が栄えた。やがて両王国はエジプトからイスラム教徒の侵略を受け、ヌビア王国は13世紀に、アルワ王国は16世紀初頭に滅亡した。この過程でアラブ人はイスラム文化を伴って南進し、ヌビア人と混血していった。

 16世紀初頭、青ナイル川上流からやってきたと考えられるフンジとよばれる民族がセンナールに首都を置く王国を建設、青ナイル、白ナイル流域を支配下に置いた。ほぼ同時期、西部のダルフール地方でもダルフール王国が勃興(ぼっこう)した。両王国はイスラム教を受容し、スルタン国と称され、長距離交易によって繁栄した。

 フンジ王国は形式的には1821年エジプトの太守ムハンマド・アリーMuhammad ‘Ali(1769―1849)に征服されるまで存続した。それ以降北部スーダンの中心部はエジプトの支配下に置かれることになった。ダルフール王国も、ハルトゥーム出身の奴隷商人ズベイルの軍勢によって1874年に滅ぼされ、エジプトの支配下に入った。エジプトの太守によって任命された総督がハルトゥームに駐留し、地方政府の枠組みが整備された。ムハンマド・アリーの後継者イスマーイール・パシャIsmail Pasha(1830―1895)は、イギリス人サミュエル・ベイカーSamuel Baker(1821―1893)に白ナイル川の探検隊を組織させ、1873年にはアフリカ中央部の赤道地域を統治下に置いた。ベイカーの仕事はイギリス人チャールズ・ゴードンCharles Gordon(1833―1885)将軍に引き継がれた。エジプトの支配下でスーダン人の不満は鬱積(うっせき)し、ついに、自らをマフディー(救世主)と称する愛国者ムハンマド・アフマドMuhammad Ahmad(1844―1885)に率いられた反乱を招くに至った。彼はイスラム信仰の復興と外国人の排撃を唱えてスーダン人を組織、ゴードン将軍の駐留するハルトゥームを包囲した。1885年ハルトゥームは陥落し、スーダンはマフディーの統治下に入った。

 19世紀末にエジプトを実質的な支配下に置いたイギリスは、フランスのアフリカ横断策に対抗し、スーダンにおける勢力の回復を図ってハーバード・キッチナー将軍を派遣した。キッチナーは1898年オムデュルマンの戦いでマフディー主義者の軍を撃破した。スーダンはふたたび独立を失い、翌1899年にイギリス、エジプト両国はスーダンを共同統治コンドミニウム)下に置くことに合意した。以降スーダンはアングロ・エジプシャン・スーダンとよばれた。1922年のエジプト独立の前後からスーダンにも民族主義運動が芽生え、第二次世界大戦中にスーダン国民としての自覚がさらに高まって、戦後には政党が結成されるに至った。1952年エジプトに軍事革命が起こるとスーダン独立が現実問題となり、1953年にはイギリスとエジプトの間に「スーダンの自治および民族自決に関する協定」が成立した。これに基づき、1956年1月スーダンは共和国として独立した。

 独立後は政党間の抗争が激しく内政は不安定で、1958年11月軍事クーデターによってイブラヒム・アブードIbrahim Abboud将軍(1900―1983)が政権を掌握した。アブード政権は1964年に崩壊、その後ふたたび政党政治が復活したが、政党間の権力争い、南部3州の分離独立問題などで内政は混乱し、1969年5月25日ヌメイリ中佐を指導者とする軍事クーデターを招来するに至った。ヌメイリは革命評議会議長として全権を握って国家体制の改造を実行、国名をスーダン民主共和国に改称した。また1972年3月にはアディス・アベバ協定により南部に大幅な自治権を付与し、1955年以降継続していた内戦を終結させた。

 しかし、南部の経済発展は容易には進まず、1983年からふたたび内戦が開始された。1984年以後、開発政策の失敗と干魃(かんばつ)や難民流入などにより経済危機が深まり、食糧暴動やゼネストが発生、1985年4月国防相ダハブSuwar al-Dahab(1934―2018)の率いる政府軍が軍事クーデターを断行、ヌメイリ政権は打倒された。ダハブ軍事政権は新暫定憲法を制定、1986年1月国名をスーダン共和国に改称した。同年4月民政移管のための総選挙が実施され、ウンマ党の党首マフディーSadiq al-Mahdi(1935―2020)を首班とする政府が成立した。マフディー政権と南部を基盤とする解放戦線SPLM/SPLA(スーダン人民解放運動/スーダン人民解放軍)との間で和平交渉が進展していたが、1989年6月軍部がクーデターを起こし、バシールOmar Hasan Ahmad al-Bashir(1944― )将軍が実権を掌握した。

 バシール政権は、アラブ化とイスラム化政策を強力に推進する一方で、北部における反政府勢力を粛清し、SPLAに対しては「聖戦」(ジハード)を宣言して軍事的対決色を強めた。1991年以降、SPLAが分裂したため、内戦は泥沼化・長期化したが、2005年1月、政府とSPLM/SPLAの間で包括的平和協定(CPA)が調印され、1983年に始まった内戦はようやく終結した。しかし、南北の平和交渉が進行していた2003年、ダルフール地方で新たな武力紛争が勃発した。死者約30万人、難民・避難民約200万人を出したが、2010年2月にドーハでスーダン政府と反政府勢力の一部が停戦に合意している。

[栗本英世]

政治・外交

独立後のスーダンでは、軍事政権と、選挙で民主的に選ばれた政権が、交互に政権を握ってきた。軍事政権の時代のほうが長期にわたるが、1964年と1985年の二度にわたって、民衆の蜂起(ほうき)によって独裁体制が打倒されたことが示すように、労働運動や学生運動の伝統も根強く残っている。1960年代には共産党が大きな影響力をもっていたが、1970年代以降は政府による弾圧を受け、その勢力は衰えている。

 スーダンの政治は、アラブ化・イスラム化を推し進めようとする北部を中心とする勢力と、それに反対する南部人および北部のリベラルな勢力との拮抗(きっこう)関係のうえに成立していると理解することが可能である。それは、スーダンという国が、アラブ・イスラムの国なのか、あるいは多文化、多宗教、多民族のアフリカの国なのかという、アイデンティティーをめぐる争いであるといってもよい。

 1989年に軍事クーデターによって成立したバシール政権を支えていたのは、ハッサン・トゥラビHassan al-Turabi師(1932―2016)を最高指導者とするイスラム主義政党NIF(国民イスラム戦線)であり、歴代のなかでもっとも強力にアラブ化とイスラム化を推進した政権である。1996年には大統領および国会の形式的な選挙を実施し、バシールが大統領に、トゥラビが国会議長に選出された。1989年以来、政党活動は禁止されていたが、1998年に認められ、1999年から政党の登録が開始された。また、2000年12月の大統領選挙ではバシールが再選されたが、この選挙を野党はボイコットした。

 国際テロリズムの支援と人権の侵害を理由に、1995年には国連総会において非難決議が、1996年には安全保障理事会において制裁決議が採択されるなどして、スーダンの現政権は国際的な孤立を深めた。しかし一方で、中東やアジアのイスラム諸国に支援を求める独自の外交を展開した。ウンマ党やDUP(民主統一党)を中心とする北部の反政府勢力とSPLM/SPLAは、NDA(国民民主連合)の旗のもとに団結し、1995年にはエリトリアの首都アスマラで会議を開催して、現政権を打倒することや南部に自決権を認めることについて基本的な合意に達した。

 1994年以降、北東アフリカ諸国の地域機構IGAD(開発のための政府間機構)が平和調停に乗り出したが、交渉は進展しなかった。他方でスーダン政府は中国とマレーシアの援助の下、内戦で中断していた石油の開発を再開し、1999年からスーダンは石油の輸出国になった。アメリカ政府の強力な介入のもとで、2002年から平和交渉が本格化し、2005年1月には包括的平和協定(CPA)が、ケニアの首都ナイロビで調印されるに至った。

 この平和協定の結果、政権党であるNCP(国民会議党、NIFが改称したもの)と反政府諸勢力との間で権力分有が実現し、中央にはNCPを中心とする国民統一政府、南部にはSPLM/SPLAを中心とする南部スーダン政府が樹立された。

 バシールは新中央政府の大統領に、SPLM/SPLA創設以来の最高指導者であるジョン・ガランJohn Garang(1945―2005)は中央政府の第一副大統領兼南部スーダン政府大統領に就任した。しかし、ガランは2005年7月末に事故死し、スーダンの前途に暗雲を投げかけた。ガランの地位は、サルバ・キールSalva Kiir(1951― )によって継承された。平和協定に基づき、行政府だけでなく、立法府と司法制度も再編された。また、SPLAは、南部スーダンの正規軍になり、石油収入を中心とする国家の財源は、中央と南部で折半されている。南部には人民の自決権が認められ、2011年には分離独立か統一スーダンの枠内にとどまるかを決定する住民投票が実施される予定である。それまでの暫定期間中、国連と国際社会の積極的な関与のもと、大規模な戦後復興と平和構築のプログラムが進行中である。

 しかし、約250万の死者と数百万の難民・国内避難民を生み出し、国土を荒廃させ、国民を複雑に入り組んだ敵味方に分断した内戦から立ち直るのは容易ではない。2007年にはCPAの実施の遅れをめぐって、NCPとSPLM/SPLAの間の対立が表面化している。さらに、スーダンの平和を脅かしているのは、2003年に開始されたダルフール紛争である。

 ダルフールでは、複数の反政府武装組織と政府軍および政府側民兵ジャンジャウィードとの戦闘のため、短期間のうちに住民の大多数が犠牲になった。国連と国際社会による人道援助は不安定な治安のため期待された成果をあげていない。AU(アフリカ連合)による平和調停の試みと7000名規模の停戦監視(事実上の平和維持)部隊の派遣も、紛争解決には至っていない。2007年末の時点では、紛争による死者は20万人、難民は20万人、国内避難民は200万人に達している。AUによる反政府諸勢力とスーダン政府の平和調停は依然として進行中である。スーダン政府は、国連平和維持部隊の展開をようやく承認し、事態の改善が期待されている。AUと国連の混成部隊(UNAMID)は、2万6000名規模に達する。他方で、ダルフール紛争は隣国のチャドと中央アフリカに飛び火し、国際紛争化している。21世紀初頭の世界における最大規模の人道的危機は、2010年時点で継続中である。

 ダルフール紛争の背景には、この地方が長年低開発のまま放置され、住民に正当な政治的権利が認められていなかったという、南部スーダンと同様の事実がある。また、砂漠化の進行と自然環境の悪化の結果、水、畑地と牧草地をめぐる争いが激化していたことも重要な要因である。以上の背景に、民族・人権的対立、NCP内部の権力闘争、国際関係などが絡まりあって、現在の武力紛争が発生している。したがって国際社会による調停と介入には、対症療法的なアプローチだけでなく長期的な展望と持続性が必要である。

[栗本英世]

経済・産業

スーダンは典型的な農業国であったが、石油輸出が開始された1999年以降、経済構造は大きく変化した。南部で発見された油田の開発は欧米の資本によって進められていたが、内戦のため1980年代なかば以降中断していた。バシール政権は油田地帯に兵力を投入し焦土作戦を展開し住民を武力で排除して環境を整え、中国とマレーシアの国営石油会社の参入をもって開発が開始された。政府は一方で内戦を遂行しつつ、他方では油田開発を行った。イスラム主義を掲げる政府のもとで、欧米諸国や日本との外交・経済関係が冷却下するなかで、アジアの資本によってスーダンの石油は開発されたのである。2007年の原油生産量は日産38万バレル、そのうち30万バレルが輸出されている。推定埋蔵量は、2006年までは約5億バレルであったが、2007年には50億バレルと劇的に増加した。石油のおかげで、国内総生産も124億ドル(2000)から376億ドル(2006)へと増加した。一人当りの国内総生産は873ドルである。石油は経済ブームをもたらし、2006年度の国内総生産成長率は13%に達している。同年の国内総生産の内訳は、農業が30.8%、製造業が35%、サービス業が34.1%であり、初めて製造業の割合が農業を上回った。輸出額は43.5億ドル、輸入額は59.7億ドル(2006)で、輸出入とも相手国の第1位は中国である。原油の約8割が中国に輸出され、中国からの投資や中国企業によるダムや橋、道路などの大規模な建設工事の請負も増加している。石油以外の主要な輸出品目としては、農産物(綿花とゴマ)、家畜、金、アラビアゴムなどがある。

 石油開発が始まる以前のスーダンにおける主要産業は農業と牧畜であった。北部の白ナイル・青ナイル流域では、植民地時代から農業開発が進められ、とくにゲジラ(ジャジーラ)地方では、大規模な灌漑(かんがい)による綿花栽培が発展した。降雨に恵まれ、広大な未開発地がある南部は、農業、畜産および林業が発展する潜在的可能性があるが、長年の内戦のため未開発のままである。

 開発の進展と良き統治(グッド・ガバナンス)の実現には交通・通信網の整備が不可欠である。近年、北部の幹線道路は整備されているが、西部と南部では劣悪なままである。1970年代以来、南部スーダンにおける舗装道路の総延長は数キロメートルのままである。未舗装道路も、雨季には多くが通行困難になる。こうした地域では、徒歩以外は航空機のみが交通手段である。植民地時代に建設された鉄道は、ハルトゥームと紅海沿岸の港町ポート・スーダン、および南部のワウ、西部のニヤラを結ぶが、老朽化しておりリハビリ(再建)が必要である。携帯電話は地方都市にも普及しつつある。バシール政権下で既成されていたインターネットは、ようやくアクセス可能になったが普及は主要都市に限られている。

 石油による経済ブームは、新興の中流・上流階層を生み出したが、発展は首都ハルトゥームに集中している。首都は、300万~400万人の国内避難民を抱え、貧富の差が著しい。西部のダルフール地方では武力紛争が継続し、住民の生命自体が脅かされている。南部全体と北部の一部地域は2005年に終結した内戦による荒廃から立ち直っていない。平和協定の結果樹立された南部スーダン政府には、石油収入の50%が割り当てられるため、年間10億ドル規模の予算があるが、復興事業の進展は遅い。国民の多数は、十分な食料、清潔な飲料水、教育と医療のサービスといった、基本的必要が満たされていない状態に置かれており、自給的な農業と牧畜を営んで生活している。国民の間の経済格差を是正し、富を公正に分配し、地方の開発と発展を達成することが、中央政府と南部政府の両方に課せられた課題であるといえる。

[栗本英世]

社会・文化

スーダンには多くの民族が住んでいるが、大別すると、北部に住むアラブ系の人々、多数はイスラム化した黒人(アフリカ系)諸民族、および南部の伝統的な宗教を信ずる黒人諸民族とに分けられる。北部のアラブ系以外の民族としては、ヌビア人、ベジャ人、ヌバ人、フール人、フルベ人などがあげられる。南部では、ナイル系のヌエル人、ディンカ人、シルック人、バリ人、ロトゥホ人、スーダン系のアザンデ人などが主要な民族である。このほかに小規模な民族が数多くあり、スーダン全体で56の民族、597の部族が存在するといわれている。アラブ系と非アラブ系(黒人、アフリカ人)との違いは、民族上だけでなく人種上の違いとしても認識されており、アラブ系が優位な立場を占めている。このことは、スーダンにおける民族問題が容易に解決できない理由の一つである。

 公用語はアラビア語で、ほぼ全国で通用する。南部と北部の一部で広く話されているのが、ピジン化(混成言語化)したアラビア語である。南部ではアラビア語とあわせて英語も公用語として用いられている。学校教育はアラビア語で行われているが、キリスト教のミッション・スクールの伝統がある南部では英語を用いている学校も多い。

 スーダンの文化は、イスラム化・アラブ化した北部と黒人の世界である南部とで大きく異なっている。ただし、北部にも非イスラム・非アラブの人々が多数存在する。スーダンのイスラムにおける戒律はアラブ湾岸諸国ほど厳しくなく、バシール政権下で規制が厳しくなったとはいえ都市では男性に交じって働く女性の姿もよくみかける。南部の黒人は伝統的な宗教(「アニミズム」と総称される)を信仰しており、キリスト教化した人々も多い。一般に南部人はイスラム教とアラビア語の押し付けを嫌い、自立を求める傾向が強い。北部、南部を通じて婚姻制度は一夫多妻であり、結婚に際しては多額の婚資が必要である。文化施設としてはハルトゥームに国立博物館がある。またメロエやシェンディでは神殿やピラミッドなどのクシュ王国の遺跡をみることができる。スーダンには多くの野生動物保護区、国立公園もあるが、宿泊施設や交通機関の不備や内戦のため、訪れる観光客はほとんどいない。

[栗本英世]

日本との関係

スーダンの対日輸出額は原油・石油製品、アラビアゴム、ゴマ、綿花を中心に5.2億ドル、輸入額は機械、工業製品を中心に5.4億ドル(2006)である。日本は中国経由でもスーダンの石油を輸入しており、その総額は18億ドルに上る。内戦中に政府によって行われた人権侵害のため、日本との外交・経済関係は縮小していたが、2005年の平和協定締結後は、外交関係は改善している。日本政府はスーダンの戦後復興に対しても、1.8億ドルの支援を実施している(2007年11月)。

[栗本英世]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例