キョル・テギン(読み)きょるてぎん(英語表記)Köl-tegin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「キョル・テギン」の意味・わかりやすい解説

キョル・テギン
きょるてぎん
Köl-tegin
(685―731)

唐の支配から独立して東突厥(とっけつ)の国家を復興させた骨咄禄(クトルク)(イルテリシュ)の子。毗伽可汗(ビルゲ・ハガン)の弟。漢字では闕特勤と音写される。叔父黙啜(もくてつ)(カプガン)の治世(691~716)に、兄と協力してモンゴル高原、南シベリアの諸族を服属させた。黙啜が戦死すると、兄をハガンに擁立し、自分は左賢王として軍事権を握り、骨咄禄以来の重臣暾欲谷(トニュクク)(阿史徳元珍(あしとくげんちん))を宰相に任用して、国政の安定に努めた。突厥碑文の一つ、いわゆる「キョル・テギン碑文」は、毗伽可汗が彼の功績をたたえて建てさせたものである。一般に誤ってキュル・テギンといわれている。キョル・テギンとは「湖(キョル)のように知恵が満ちた皇子(テギン)」を意味する。

[護 雅夫]

『護雅夫著『古代遊牧帝国』(中公新書)』

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「キョル・テギン」の解説

キョル・テギン
Köl Tegin 闕特勤

685~731

東突厥(ひがしとっけつ)ビルゲ・カガン(毗伽可汗)の弟。兄の即位に尽力し,左賢王に任じられて軍事権を握り,功績を立てた。オルホン碑文の一つキョル・テギン碑文はその紀功碑である。

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世界大百科事典(旧版)内のキョル・テギンの言及

【突厥】より

…これ以後を突厥第二可汗(帝)国と呼ぶ。頡跌利施可汗の弟,黙啜(カプガンQapghan)可汗時代に,東は契丹,北はキルギス,西はビシュバリクのバスミルおよびイルティシュ川方面のトゥルギシュを討ち,さらに頡跌利施可汗の子ビルゲ・ハガンが直系を復活して弟の闕特勤(キョル・テギンKöl Tegin。685‐731)とともに,父の代からの功臣トニユククTonyuquq(阿史徳元珍)の助言を得ながら遊牧騎馬国家の復興を成し遂げた。…

【ビルゲ・ハガン】より

…父の死(691)後,父の弟のカプガン(黙啜(もくてつ))・ハガンの時代にエニセイ川上流のキルギス遠征,九姓鉄勒鎮圧などに功を立て,西方地域の経営にあたった。黙啜の死(716)後,その一族や臣下を弟のキョル・テギン(闕特勤)が殺し左賢王として西方経略にあたる中で,黙棘連は推されてビルゲ・ハガンを称した。復興突厥の国力充実をはかる一方,一時はソグディアナにまで軍を送りその勢いを示した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」