ガウリー(英語表記)al-Ghawrī

改訂新版 世界大百科事典 「ガウリー」の意味・わかりやすい解説

ガウリー
al-Ghawrī
生没年:1430ころ-1516

ブルジー・マムルーク朝末期のスルタン。チェルケス系で,在位1501-16年。グーリーGhūrīとも呼ばれる。ポルトガルのインド洋進出に対してマムルーク艦隊を派遣するが,インド,カーティアーワール半島のディウDiu島沖海戦で敗北し(1509),この方面の制海権と通商権益を失った。オスマン帝国のセリム1世の東方イスラム世界への進出は両朝を宿命対決へと導いたが,アレッポ北方のマルジュ・ダービクMarj Dābiqの戦で大敗し,奮戦空しく戦死した。この敗北で事実上シリア全土を失った。学問アラブ文学を愛好し,治世の初期には多くの建造物を残している。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ガウリー」の意味・わかりやすい解説

ガウリー

パールバティー」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報