イリンデン蜂起(読み)イリンデンほうき

改訂新版 世界大百科事典 「イリンデン蜂起」の意味・わかりやすい解説

イリンデン蜂起 (イリンデンほうき)

1903年にマケドニアで起きた反オスマン帝国の蜂起。8月2日(旧暦7月20日)の聖イリンIlinの日に勃発したのでこの名がある。マケドニアは現在の東西トラキアやアルバニアを含む諸地方とともに,ベルリン会議(1878)後もオスマン帝国領にとどまったため,19世紀末から自治を要求する運動(〈マケドニア人のためのマケドニア〉)が強まり,1893年には在内マケドニア人革命組織(IMRO)が結成されてデルチェフGotse Delchev(1872-1903)ら社会民主主義者がこれを指導した。蜂起は指導部内の対立もあって準備不十分のまま始められたが,おもに農民からなる蜂起者は8月4日にクルシェボ(クルショボ)Kruševoを占領し,臨時政府を置いてクルシェボ共和国の宣言をおこなった。しかし蜂起は山岳部を除いては散発的に終わり,圧倒的に優勢なオスマン・トルコ兵に鎮圧され,バルカンにはじめて生まれた共和国も8月12日に倒された。ヨーロッパ列強はこれを契機に同年10月のミュルツシュテークMürzsteg協定でトルコにマケドニアの改革を要求したが,実質的な改革はなされず,国際紛争の焦点となった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のイリンデン蜂起の言及

【バルカン】より

…このような外部からの働きかけに反発して1893年イムロIMRO(内部マケドニア人革命組織)が結成され,オスマン帝国内でのマケドニアの政治的自治を要求した。この運動は1903年のイリンデン蜂起失敗後退廃の道をたどり,08年の青年トルコの武装蜂起以後,政治的自治の方針を捨て,しだいにテロ集団化しブルガリアの政策に追随するようになるのだが,そのおもな原因としてマケドニア人のアイデンティティの弱さが挙げられなければならない。マケドニアの住民は自分たちをマケドニア人と呼び,それを誇りにもしていたが,民族を形成するだけの意識的・社会的な諸条件を欠いていたのであろう。…

【マケドニア】より

…これとは別に95年にはブルガリアのソフィアで移民組織を統一する指導的組織として〈マケドニア最高委員会Vrhoven makedonski komitet〉が形成され,列強の保証下のマケドニア自治を掲げて,マケドニア各地に武装部隊を派遣しはじめた。1903年夏,マケドニア各地で一斉に大規模な蜂起(〈イリンデン蜂起〉とよばれる)が起こり,マケドニア南西部のクルシェボKruševoでは短期間ではあったが共和国(〈クルシェボ共和国〉とよばれる)を宣言した。
[マケドニア分割]
 1908年の青年トルコ党によるオスマン帝国の民主化改革が短命に終わると各地で反乱が続発,〈バルカン同盟〉がオスマン帝国に対し宣戦するかたちで第1次バルカン戦争(1912)が勃発した。…

※「イリンデン蜂起」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」