アブドゥル・ラフマーン(読み)あぶどぅるらふまーん(英語表記)‘Abdul Ramān

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アブドゥル・ラフマーン」の意味・わかりやすい解説

アブドゥル・ラフマーン
あぶどぅるらふまーん
‘Abdul Ramān
(1844―1901)

アフガニスタンバーラクザイ朝(1819~1946)の第5代王(アミール)。創始者ドースト・ムハンマドの孫。叔父で第2代アミールのシェール・アリー、その子で第4代アミールのヤークーブとの権力闘争に敗れ、サマルカンド逃亡タシケントのロシア総督となる。第二次アフガン戦争でのシェール・アリーの敗北、ヤークーブの失脚後、イギリスの後押しで、カブールのアミールとなった(1880)。国内の暴動を鎮圧し、対ロシア(1888)、対インド(1893)の国境をいちおう画定し、今日のアフガニスタンの基礎を築いたことが、その最大の業績である。

[清水宏祐]

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世界大百科事典(旧版)内のアブドゥル・ラフマーンの言及

【アフガニスタン】より

…2度とも,カーブル駐在の外交代表が殺害されたり,戦闘において軍隊が敗北したりして,イギリスは大損害を被った。そこでイギリスはこの国の直接支配をあきらめ,国王アブドゥル・ラフマーンAbd al‐Raḥmān(1844‐1901,在位1880‐1901)を援助することによって,この国をロシアに対する防壁として利用することにした。アフガニスタンとしては,内政上は,この国王の下で,従来の部族連合から専制国家へ脱皮し,王権の確立と諸部族の弱体化が達成された。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」