黒沢村(読み)くろさわむら

日本歴史地名大系 「黒沢村」の解説

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]市川大門町黒沢、南巨摩郡鰍沢かじかざわ駅前通えきまえどおり

八之尻はちのしり村の西に位置し、西は富士川を隔てて鰍沢村(現鰍沢町)、南は羽鹿島はじかじま(現同上)および割石わりいし峠の嶺線をもって落居おちい(現六郷町)に接する。地元ではクロザワともよぶ。西八代台地のじよう山に源をもつしん川の氾濫原上に黒沢集落、富士川の河岸段丘上に大木おおき法師倉ほしぐらの二集落がある。縄文時代中期の宮の前みやのまえ家の前いえのまえ寺の前てらのまえの三遺跡がある。徳治二年(一三〇七)正月二七日付の大月市花井かせい寺蔵大般若経巻二二七の奥書に「甲斐国大井庄南条黒沢村内久次名」とみえ、益子四郎左衛門入道行仏が黒沢村のうち久次ひさつぐ名で書写している。黒沢村は大井おおい庄の南部(南条)に含まれていた。法師倉の地名は示倉の転訛とみられ、大井庄域の南限であったと考えられている。天正四年(一五七六)七月二一日の黒沢之郷棟別御改之日記(甲斐国志草稿本)によれば、黒沢郷には本家三一・新家二一・片屋一・明屋敷九・諸役免許の家六の六八軒があり、このなかの名請人には大門尻だいもんじり石津いしづ大窪おおくぼ(大久保)宮沢みやざわ・大木・法師倉・舟筵ふなむしろなどの近隣諸郷名を肩書にもつ人物が含まれている。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]飯豊町黒沢

萩生はぎゆう村の東、しら川左岸に位置する。東流して当地で白川に注ぐ萩生川を境に、右岸の上黒沢、左岸の下黒沢と二組に分れる。北東は時庭ときにわ(現長井市)。文明一二年(一四八〇)六月二一日の高光在家売券(国分文書)に「下長井しやうくろさハのかう」とみえ、「いつミはら三河」から買った郷内の「くらすミ在家一う」が一〇貫文で売渡されている。明応七年(一四九八)伊達宗実から国分修理助が譲られた地に郷内の「たかやなき一う」「しまさいけ一う」などがあった(同年七月一一日「伊達宗実相続状」国分文書)。永正一〇年(一五一三)六月二六日黒沢郷内の寺島河内よりの買地が湯村助十郎に安堵された(伊達正統世次考)。大永五年(一五二五)一二月二四日梅津備後より買った郷内の「壺沼在家文之所、一宇不残」が湯村犬松に安堵された(「伊達稙宗安堵状案」伊達家文書)

天文七年(一五三八)の段銭古帳では段銭三〇貫八〇〇文、うち二貫は御中館引。同二二年の晴宗公采地下賜録によると、阿久津孫二郎に黒沢郷内の「やち田さいけの内、きりた七百かり」、湯村くに松に「長勺千かり」、安久津とうはく丸に「やち田はん在家」、小高二郎左衛門に「南七日町在家、同町田在家、おつと在家」片倉式部に「一けん」、大立目弥八郎に「なか嶋在け」「とひあかり在け」「うりはたけ在け」「たうせうてん」「きり田五百かり」、原田藤左衛門に「新城ゐん分二間」「遠藤わかさの分、五百かり」、湯村藤左衛門に「つほぬま在け」、長ゑひけんに「五百かり」、大塚信濃に「三間」、守屋監物に「黒沢館在家」がそれぞれ与えられた。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]色麻町黒沢

はな川と保野ほの川の間に東西に長く延びたなだらかな地形の村で、西部を南北に小野田おのだ(現小野田町)から仙台への道が通じ、ふか(黒沢川)木戸きど川が東流する。東は四竈しかま村・高城たかき村、南は王城寺おうじようじ村に接する。村名はこの地域の土地が黒色火山灰土で、地力が弱いところに起因する。北西の志津しづ村端郷鷹巣たかのす上原かんばらの地の所属をめぐって争論があり、享保一七年(一七三二)黒沢村分ということで落着したが、再び紛争となり、元文三年(一七三八)双方が納得している(安永風土記)。「大崎実録」「大崎武鑑」によると、葛西清重の流れをくむ浅野因幡守重勝の長子康重の居城要害ようがい城があり、また大崎家臣邑主黒沢治部の居城かみ館・なか館・うち館跡が残る。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]山内村黒沢

あさひ(現横手川)の支流黒沢川の上流一帯を占め、西に小松川こまつかわ村、東は山を隔てて湯田ゆだ(現岩手県和賀郡湯田町)に接する。村内に下黒沢しもくろさわ上黒沢かみくろさわ田代沢たしろざわの小集落がある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には上黒川かみくろかわ村一〇一石とあり、ほかに上黒川村の内に無高の下黒川しもくろかわ村と内田代うちたしろ村がある。享保一四年(一七二九)の平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄宝永享保黒沢村、寛文貞享黒川村、但元禄黒沢村古ハ上黒川村」とあり、近世前期には黒沢村・黒川村が併用されていた。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]武川村黒沢

鳳凰ほうおう山の支脈、通称小物成こものなり山麓の大武おおむ川段丘上に位置する。南の黒沢川の谷と台地との境界線に沿い、南面傾斜地を利用した日当りのよい場所である。天正九年(一五八一)八月二〇日、武田勝頼は「黒沢山之堺」を裁定した。これにより「南ハ判形之道より八町庄司、みつなきより北」「真原下道より石塔烏帽子石大武川切ニ南」が黒沢分として確定した(「武田勝頼印判状」一木正喬家文書)。同一一年九月二八日に禰津松鴎軒に宛てて黒沢三〇〇貫文が鶴千世丸の養育料として宛行われている(「徳川家康印判状写」譜牒余録)。同一七年一二月一一日武川衆中に宛てた伊奈忠次知行書立写(記録御用所本古文書)のなかに黒沢之郷で一八四俵余がみえる。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]三隅町黒沢

上古和かみこわ村の北に位置する山村で、東は木束きつか(現弥栄村)。人家はごう長尾ながお的野まとのなどのほか、えきとよばれる小字の地に散在する。康永二年(一三四三)八月七日、吉川経明の軍勢が、「黒沢山」に城郭を造って立籠った南朝勢を攻撃している(同年八月日「吉川経明軍忠状」吉川家文書など)。黒沢城は当地にあったとみられ、三隅兼春、のち三浦左京が守ったという。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高四三二石余、年貢高は田方二〇三石余・畑方九〇石余。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]山形市黒沢・東黒沢ひがしくろさわ表蔵王おもてざおう蔵王松ざおうまつおか南半郷みなみはんごう

松原まつばら村の南に位置し、川西岸平地に立地。集落はもと須川東岸にあったが、羽州街道の整備に伴い西岸の現在地に移転したと伝える。以後同街道松原宿の合宿となり、月の下旬一〇日間の人馬継立を行い、名主渡辺久右衛門家が問屋役を勤めた(「覚」渡辺文書)。村の中ほどに一里塚があり、現在も地名として残る。

最上氏改易後は山形藩領、文政八年(一八二五)幕府領、弘化二年(一八四五)上野館林藩領となる。元和九年(一六二三)の成沢之郷黒沢村検地帳(山形県史)によれば、反別田一一町四反余・畑五町余、名請人三六。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]吉井町黒沢

中山なかやま村の北にあり、滝山たきやま川に沿って東西に細長い平地が広がる。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)楢津ならづ保に黒沢村とあり、寛永備前国絵図では高二三二石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によれば枝村は持井田もちいだ村・室原むろはら村・河原かわら村・柿谷村、引高四九石余。寛永一〇年(一六三三)には引高三石余、寛文元年(一六六一)二一石余、享保元年(一七一六)六一石余、文化元年(一八〇四)九八石余と年々増加した。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]最上町黒沢

向町むかいまち村・本城ほんじよう村の北東、絹出きぬで川支流黒沢川の流域に位置し、新田本村鑑は枝郷として中山なかやま(現在の判屋地区)田中たなか宇津野うつのの三ヵ村をあげる。地内に縄文時代晩期の集落跡材木ざいもく遺跡がある。元和八年(一六二二)の御前帳写では高一七三石余、寛文四年(一六六四)には高三四六石余、うち新田一八石余(新田本村鑑)、明和三年(一七六六)には高三七九石余、うち田方三〇七石余、反別三八町五反余、うち田方二八町九反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数二九・人数一八一、駄馬一〇三。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]青梅市黒沢

南小曾木みなみおそぎ村の南西に位置し、黒沢川が流れる。北西の吹上ふきあげ峠を越えると成木なりき村方面に通じる。青梅村かみ町に下る道は青梅坂(青梅北口とも)という。かつては勝沼かつぬまのうちであったとされる。塩船しおぶねの観音寺本尊の永正九年(一五一二)四月一六日の修理銘に塗師の黒沢西道鑑がみえ、永禄七年(一五六四)と推定される五月二三日の北条氏照朱印状(和田文書)の清戸三番衆に三田みた谷の侍としてみえる黒沢孫次郎も当地を拠点としていた者であろう。

黒沢村
くろざわむら

[現在地名]本郷村大字西黒沢にしくろざわ

玖珂郡北部、奥山代おくやましろの中心本郷村の西北に位置し、宇塚うづか村と成君寺じようぐんじ山を間にして背中合せの位置にある。萩藩領奥山代宰判所属。

古くは本郷村に属したが、慶長一二年(一六〇七)から始まった検地の際、宇塚村・本谷ほんだに村などとともに分離したという(山代温故録)。しかし同一五年にできた検地帳では、まだ本郷村の内にある。村名の初見は「地下上申」で、「黒沢村、但、往古は深山多御座候処に、下河内と申所に右衛門太夫と申者罷居、爰かしこ切開申候処に、谷々えき々開立、川縁など掘流し、凡四五年之間も昼夜水濁れ候故、黒川と申之由に御座候、其後追々田畠開立、惣名を黒沢と号由申伝候」と記す。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]三岳村黒沢

御嶽おんたけの東麓に位置し、険しい山が数多く連なり、王滝おうたき川とその支流西野にしの川沿いの谷間に、耕地と集落が散在している。

永禄三年(一五六〇)六月一三日、木曾義昌が御嶽登山をした時の従者に名を連ねている「原新次郎・上村虎若・原右京亮」(木曾旧記録)は、黒沢に住していた義昌の家臣で、福島ふくしま城(現木曾福島町城山じようやま)の裏側にあたる上村かんめら上村かみむら氏、福島から黒沢へ通ずる合戸あいど峠の麓に原氏、田中たなかに田中氏が屋敷を構えている。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]佐伯市青山あおやま 黒沢

河井かわい村の南、黒沢川流域に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高四三四石余・畑高一一四石余、堅田かたた郷に属した。その後の郷帳類では堅田村に含まれたと思われる。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)によれば堅田村の枝郷で、地内に船下ふながした万治まんじ日出光ひじこう瀬口せぐち桐原きりがはる小平山おひらやま岡野谷おかのたに森野下もりのした市野々いちのの原野口はるのぐち山野下やまのした伏木河内ふしきかわちがある。旧高旧領取調帳では一村として高付されており、高五一〇石余。文化七年(一八一〇)の家数・人数は善兵衛組三一軒・一四二人、政右衛門組四五軒・二〇〇人(温故知新録)

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]千畑村黒沢

黒沢大台くろさわおおだい(八三二・九メートル)の西麓、西に平地が広がる。北の太田おおた(現太田町)、南の六郷ろくごう(現六郷町)、西の板見内いたみない(現仙北町)に通ずる脇道がある。北は川口かわぐち村・永代えいだい(現太田町)、南と西は元本堂もとほんどう村に接する。

天正一八年(一五九〇)の従秀吉公賜于忠親羽州本堂領御朱印之写(本堂家系譜)に「くろ沢村」とあり、田七三石一升七合、畑七石八斗八升二合、計八〇石八斗九升九合とあり、本堂氏領であった。天正一八年七月二八日、戸沢光盛は豊臣秀吉より、兄の遺領を安堵され、同時に角館かくだてを除く領内諸城の破却を命じられた(戸沢文書)

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]由利町黒沢

子吉こよし川の下流左岸にあり、北は川を隔てて曲沢まがりさわ村、南は明法みようほう村に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四三六石とあり、対岸の滝沢町たきざわまち村へ通ずる矢島街道沿いに一里塚があり、米山こめやま村まで一五町五七間の間、子吉川左岸には村がなかったことも記される。元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳にもほぼ同高が記される。灌漑用水として村の南にある東西三〇間、南北一町、周囲二町二二間の小木山こきやま堤と、東鮎川ひがしあゆかわ村から流れ入る大堰とがあった(羽後国由利郡村誌)

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]柳津町黒沢

砂子原すなこはら村の南五町に位置し、小野川おのがわ(現昭和村)への道に沿い、村中より大谷おおたに峠を越えて大谷村(現三島町)への経路を分岐する。村名の由来は伊佐須美明神の神輿渡御伝説に基づくという(三島町史)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七四石余。寛永二〇年(一六四三)から南山御蔵入領となり、享保一七年(一七三二)の大谷組御手鑑(角田家文書)では高八一石余、家数三一、竈三二(名主一・組頭一・百姓二九・水呑一)、男九八・女九九、馬一七とある。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高一〇三石余。化政期の家数三一(新編会津風土記)

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]小国町黒沢

よこ川を挟んで種沢たねざわ村・芹出せりで村の東に位置する。天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録に「黒さハの内、なぬし分」とみえ、上郡山民部大輔に加恩として与えられた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高七五石余、免三ツ七分、家数八(うち役家二・肝煎一)・人数三二、役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中、修正前の高九九石余。寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣三。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]只見町黒沢

楢戸ならど村の北西、伊南いな川右岸の狭い河岸にあり、背後に急峻な山がそびえる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「黒沢 百廿三石七斗四升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で、免三ツ八分。黒谷組に属する。石高は宝暦一二年(一七六二)には六四石余に激減しており(図説会津只見の歴史)、伊南川の洪水で耕地が流失したものと思われる。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高八七石余。化政期の家数一五(新編会津風土記)。当村は山が広大で、延宝五年(一六七七)の黒谷組書上控(福島県史)によれば、「田壱反之こやし苅敷六拾荷余入申候」とあり、新田開発の増加に伴い刈敷の量も増加し、山の少ない村は多い村に入会地を求め境界争いを起こしたりするなど、山論が激しくなる。

黒沢村
くろざわむら

[現在地名]美和町大字黒沢

玖珂郡の北東部に位置し、岸根がんね百合谷ゆりたに大根川おおねがわの各村に挟まれた山村で西は中垣内なかがいち村。寛永二〇年(一六四三)藤谷ふじたに村を分割してできた小村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名が出る。岩国藩領。

村名について村の伝承は、村内の字サバイガミの川端に黒い沢があることによるという。村高は「御領分村一紙」に高一二〇石余、うち田方八二石余、畠方二一石余、楮一七石余とある。享保一一年(一七二六)には、村高一一八石余、四二軒、一八七人、牛一三頭、馬三頭という状態で(享保増補村記)、山村のため耕地は少なかった。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]秋田市太平黒沢

寺庭てらにわ村の五町東、太平山地南麓の集落。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に名がみえる。また慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)によると鑓衆が置かれている。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に寺庭村の内黒沢村とある。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「黒沢村 二十八軒」とあり、支郷として家数七軒の稲荷いなり村と台菅野だいかんの村をあげる。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]魚津市黒沢

布施ふせ谷の布施川左岸にあり、西は長引野又新ながびきのまたしん村、南は小川寺おがわじ村。正保郷帳では高一六八石余、田方九町六反余・畑方一町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二三二石・免五ツ一歩、小物成は山役四六匁、蝋役二匁・鮭役一一匁・鮎川役一匁、鱒役一匁(出来)である(三箇国高物成帳)。元禄一一年(一六九八)七七石の検地引高があり、一方享保八年(一七二三)など二度の手上高があって天保一一年(一八四〇)の打銀高一六七石(「高免帳」杉木家文書)

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]高遠町大字長藤おさふじ

中条なかじよう村の西、藤沢ふじさわ川の支流の黒沢川の谷間の村。西方は黒沢山の峰をもって手良てら(現伊那市)に接し、野口のぐち(現伊那市)に通ずる峠道がある。

初見は正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻で「一高九拾弐石 黒沢村」とある。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]西会津町下谷したたに

小杉山こすぎやま村の南西、山間に位置する。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに黒沢とみえ、高一四〇石余。寛文五年(一六六五)の野沢組土地帳(西会津町史編さん室蔵)では高一四二石余、家数一七、男五六・女五〇、馬六。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]赤穂市東有年ひがしうね

西有年・有年栗栖うねくるす楢原ならばらの三村境、黒沢山(三三四・八メートル)にある山地集落。正保郷帳に村名がみえ高二五石余。柴山・新田あり。宝永三年(一七〇六)の指出帳によると高二五石余。高札場一、五間・三間の堀、溜池二。百姓家数一〇・人数五三、牛四。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]鰍沢町駅前通えきまえどおり、西八代郡市川大門いちかわだいもん町黒沢

富士川左岸、しん川が合流する所にあり、八代郡に属し、南は同郡羽鹿島はじかじま村、東は同郡八之尻はちのしり(現市川大門町)、対岸は巨摩郡鰍沢村。

黒沢村
くろさわむら

[現在地名]鷹巣町黒沢

羽州街道沿いの坊沢ぼうざわ村から北へ約半里、山中の小村。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「山本郡との境右郡の内大沢村との境ハリ沢、稗田の沢山峯切境、下小坪沢、上小坪沢、滝ノ沢、焼家戸沢迄山峯切境。但民家十一軒」とあり、西と北は小分水嶺をもって山本郡との境をなしていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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