黒住宗忠(読み)クロズミムネタダ

デジタル大辞泉 「黒住宗忠」の意味・読み・例文・類語

くろずみ‐むねただ【黒住宗忠】

[1780~1850]江戸後期の神道家。黒住教教祖備前国御野郡の禰宜ねぎで、大病回復と神秘体験を得て回心、黒住教を開いた。

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精選版 日本国語大辞典 「黒住宗忠」の意味・読み・例文・類語

くろずみ‐むねただ【黒住宗忠】

江戸末期の神道家。黒住教の教祖。備前国(岡山県)今村宮の神官の家に生まれる。結核で死を覚悟したが、天命直授(じきじゅ)の経験をし、開教各地で布教に努め、多くの信者を得る。死後、宗忠大明神の号をおくられ、京都と岡山宗忠神社が建てられた。安永九~嘉永三年(一七八〇‐一八五〇

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朝日日本歴史人物事典 「黒住宗忠」の解説

黒住宗忠

没年:嘉永3.2.25(1850.3.7)
生年:安永9.11.26(1780.12.21)
江戸後期の神道家で黒住教の教祖。備前国御野郡上中野村(岡山市)に,父の今村宮禰宜・黒住宗繁,母つたの3男として生まれた。幼少より父母の影響を受けて信仰心が篤く,親孝行の子供として知られた。文化7(1810)年,31歳で家督を継ぎ禰宜となったが,2年後の同9年に両親を相次いで失い,宗忠自身も肺結核を患うなど心身ともに大きな衝撃を受けた。しかし心の持ち方によって健全な心身が回復することを悟り,次いで同11年の冬至の朝に太陽のエネルギーが身体に満ち,天照大神と一体になるという神秘的な体験をした。このときの体験を「天命直授」といい,黒住教を立教するに当たっての決定的な契機となり,黒住教ではこの日を立教の日としている。以後,この体験をもとにして神道講釈や禁厭などの布教活動に入り,天照大神の神徳に感謝し,心を陽気にして生活すればあらゆる願いが成就されることを説いた。 宗忠の教えは体系的なものではなく,教義はわずか7カ条の「日々家内心得の事」があるだけであり,その時々に心に浮かんだことを話すことに特徴があった。死去するまで約35年にわたって神道講釈と信仰による病気治療を行ったが,この布教を慕って庶民階級だけではなく武士階級にも入門する者が徐々に増え,信仰の深まった信者は「神文」を捧げ,「神文衆」と呼ばれた。この「神文衆」が教団組織の基盤となり,岡山地方を中心にして信仰は広まっていった。宗忠は在世中から生き神として尊信されていたが,死後,京都・吉田家から「宗忠大明神」の号が授けられ,文久2(1862)年高弟の赤木忠春らが京都に宗忠神社を創建した。これによって黒住教は幕末維新期には京都にも広まり,当時の高名な国学者である大国隆正も黒住教を「易行神道」の代表的なものとして評価している。<参考文献>原敬吾『黒住宗忠』

(阪本是丸)

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改訂新版 世界大百科事典 「黒住宗忠」の意味・わかりやすい解説

黒住宗忠 (くろずみむねただ)
生没年:1780-1850(安永9-嘉永3)

黒住教の教祖。諱(いみな)が宗忠,幼名が権吉,左之吉,右源次,今村宮の禰宜(ねぎ)職のとき左京宗忠。備前国御野郡上中野村(現,岡山市北区上中野)に生まれる。父宗繁は今村宮禰宜で徒士格,母はつたで,その三男。1803年(享和3)に最初の伊勢参宮をしてより生涯に6回の参宮をし,天照大神への崇敬の念を深くした。12年(文化9)に両親をあいついで失い,みずからも労咳(肺結核)で病床にあること3年,14年冬至の日の出を拝んだときに自己の全生命と太陽たる天照大神が合一する神秘体験をし,神人不二(ふに)の妙理を悟った(天命直授(じきじゆ))。全快後の宗忠は,天命直授体験をもとに,天照大神への帰依による陽気な生活を理想と説き,祈禱禁厭で評判をとり,病人をなおした。その教えは,近隣地主層から岡山藩士へと広がり,弘化年間に教団組織が確立,1876年に神道事務局から別派独立として公認され,82年に神道黒住教となる。宗忠は56年(安政3)門人赤木忠春らの運動で大明神号をさずかり,62年(文久2)に京都神楽岡(現,京都市左京区),85年には岡山の大元(現,岡山市北区)に宗忠神社が建立された。教義に関する教祖の自筆文章は〈日々家内心得の事〉のみで,ほかに和歌と書信が残されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒住宗忠」の意味・わかりやすい解説

黒住宗忠
くろずみむねただ
(1780―1850)

江戸末期の宗教家。黒住教の教祖。安永(あんえい)9年11月26日、備前(びぜん)国(岡山県)御野郡(みのごおり)上中野村の今村宮禰宜(ねぎ)の三男として生まれる。幼名権吉(ごんきち)、元服して左之吉、禰宜となって左京宗忠を名のる。1814年(文化11)、両親の死後患っていた胸の病が、心のもち方によって急激に回復するという体験をし、さらに冬至の日の朝、「天命直授(てんめいじきじゅ)」とよばれる神秘的境地に至る。翌1815年から講釈を中心とする布教活動を始め、武士などに門人が増加した。「日々家内心得の事」という7か条の簡単な文のほかにはまとまった教義を著すことはなかったが、和歌の形式でそのときどきの心境を詠んだものが、実質的な教えの内容となっている。

[井上順孝 2018年6月19日]

『原敬吾著『黒住宗忠』(1960/新装版・1987・吉川弘文館)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「黒住宗忠」の解説

黒住宗忠
くろずみむねただ

1780.11.26~1850.2.25

江戸後期の神道家で黒住教の教祖。備前国御野(みの)郡上中野村今村宮の禰宜(ねぎ)黒住宗繁(むねしげ)の子。幼名は権吉,初名は左之吉,のちに右源治と改めた。1812年(文化9)両親をあいついで失い,みずからも病気になったが,心持ちをかえて回復。14年の冬至(11月11日)の朝に太陽を呑みこんで神と合一する「天命直授(じきじゅ)」後,教祖となって黒住教の布教を展開,信者集団を形成していった。彼の講釈は「浮かびのままの説教」といい,準備を行わず心に浮かんだことを話した。著作は残されていないが,「日々家内心得の事」が教典とされた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黒住宗忠」の解説

黒住宗忠 くろずみ-むねただ

1780-1850 江戸時代後期の宗教家。
安永9年11月26日生まれ。黒住教の教祖。生家は備前(岡山県)今村宮の禰宜(ねぎ)職。文化7年父の跡をつぐ。11年冬至の朝,太陽(天照大神)と一体となる「天命直授(てんめいじきじゅ)」といわれる神秘的な体験をする。この体験をもとに神道講釈とまじないによる布教をはじめた。嘉永(かえい)3年2月25日死去。71歳。幼名は権吉。通称は左之吉,右源次。
【格言など】目を開けて空仰き見よ見よ天照る神の道は一筋(辞世)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黒住宗忠」の意味・わかりやすい解説

黒住宗忠
くろずみむねただ

[生]安永9(1780).備前,今村
[没]嘉永3(1850)
黒住教教祖。今村宮の神官の子に生れる。文化 11 (1814) 年 11月朝日を拝してアマテラスオオミカミとの合一感を得,天命直授を確信し,布教を始める。著書『日々家内心得之事』『御定書』。

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367日誕生日大事典 「黒住宗忠」の解説

黒住宗忠 (くろずみむねただ)

生年月日:1780年11月26日
江戸時代後期の神道家;黒住教の教祖
1850年没

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世界大百科事典(旧版)内の黒住宗忠の言及

【黒住教】より

…教派神道の一派。1814年(文化11)に黒住宗忠が開教したもので,76年に独立教派として政府から認可された。黒住教は,幕藩体制の解体期に成立した民衆宗教のなかで,天理教,金光(こんこう)教に先行して教義を確立し,江戸末期に教団を形成した。…

※「黒住宗忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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