黄金塚古墳(読み)こがねづかこふん

精選版 日本国語大辞典 「黄金塚古墳」の意味・読み・例文・類語

こがねづか‐こふん【黄金塚古墳】

大阪府和泉市上代(うえだい)町にある前方後円墳。全長八五メートル。昭和二六年(一九五一)の調査で、粘土槨(かく)の中から三つの木棺を発掘。多数の副葬品のなかに魏の景初三年(二三九)の銘のある鏡があり、この年は卑彌呼が魏に使者を出した年にあたるので注目された。

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日本歴史地名大系 「黄金塚古墳」の解説

黄金塚古墳
こがねづかこふん

[現在地名]和泉市上代町

信太山しのだやま丘陵の北西端、標高三〇メートル余の丘陵上に築かれた南西向きの前方後円墳。昭和二〇年(一九四五)遺物の出土が確認され、同二五年・二六年に発掘調査が行われた。墳丘の全長八五メートル、後円部径五七メートル・高さ八メートル、前方部幅三四メートル・高さ六メートル。封土は大半が盛土で、一部自然地形を利用し、二段築成によっている。葺石は上下二段にめぐらされていたと考えられるが、上段遺存度は不良である。円筒埴輪が上下段の段上部分にめぐらされ、後円部頂には家形埴輪を配していたと考えられている。墳丘の周囲には幅一五メートル余の濠の跡を残す。とくに東・西の濠底での比高差は二メートルを測り、少なくとも三段以上の高低差を水面に有していたと考えられている。

黄金塚古墳
こがねづかこふん

[現在地名]奈良市田中町字上ノ口

窪之庄くぼのしよう集落の東方約四〇〇メートル、春日山系から西方に延びる尾根の南斜面にある。一辺約二六メートルの方形墳。墳丘は整った二段築成で、東・西・北の三方は空堀状の地帯で区画され、南は開放されている。内部構造は状の石材を積上げたいわゆる槨式の横穴式石室で、南を向いている。

長さ三メートル、幅三・三メートル、高さ二・六メートルと横幅の広い玄室に、長さ九・六メートルの羨道部が取付いている。

黄金塚古墳
こがねづかこふん

[現在地名]伏見区桃山町遠山

東山連峰の最南端にあたる大岩おおいわ山の南麓に位置する。一号墳、二号墳の二基があり、一号墳は全長約一〇〇メートル、前方部の発達した前方後円墳であり、二号墳は一号墳より更に大形で、全長約一二〇メートルの前方後円墳である。二号墳は、現在一部伊予親王巨幡陵に比定されているが、前方部は破壊されている。両古墳とも内部構造は不明だが、二号墳は五世紀中葉前後、一号墳はそれに続く時期に築造されたものと考えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「黄金塚古墳」の意味・わかりやすい解説

黄金塚古墳 (こがねづかこふん)

大阪府和泉市上代町に所在する前方後円墳。信太山丘陵の北端に南西面して築かれる。全長85m,後円部径57m,前方部幅34mをはかる。葺石(ふきいし),埴輪を有する。1951年に,末永雅雄が中心となって発掘調査を行い,後円部で主軸に平行する粘土槨3基を検出した。副葬品として,中央槨から中国鏡,玉類,碧玉腕飾類,筒形石製品,刀剣,農工具などが,東槨から中国鏡,玉類,鍬形石,筒形石製品,五銖銭,甲冑,刀剣,矛,鉄鏃,盾,巴形銅器,農工具が,西槨から中国鏡,玉類,銅鏃,鉄鏃,甲冑,刀剣がそれぞれ出土した。出土品のうちで中央槨の画文帯神獣鏡は,卑弥呼がはじめて魏に朝貢した景初3年(239)の年号銘をもつ点で注目を集めた。しかし,古墳の営造年代は4世紀後葉にあたる。報告者は,被葬者の性別について,中央槨を女性,東槨および西槨を男性と想像したが,その可能性は低くない。なお,出土品は1972年に国の重要文化財に指定された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黄金塚古墳」の意味・わかりやすい解説

黄金塚古墳
こがねづかこふん

大阪府和泉(いずみ)市上代(うえだい)町にある、墳丘の長さ85メートルの前方後円墳。通称信太山(しのだやま)丘陵北西端にあって、海岸平野や大阪湾を見下ろす景勝の地に地形を利用して築かれている。第二次世界大戦中に墳丘の各所が掘り荒らされたので、末永雅雄(すえながまさお)と森浩一(こういち)が1945年(昭和20)に予備調査を行い、50年と51年に後円部の埋葬施設を発掘した。後円部頂上には3個の粘土槨(ねんどかく)が並置されており、いずれも内部にコウヤマキ製の木棺を納めていた。とくに中央槨の木棺は長さが8.5メートルもあり、その内外から銅鏡、玉類、碧玉(へきぎょく)製品、鉄製刀剣などが出土し、棺外の槨の中に景初(けいしょ)(?)3年銘の平縁(ひらぶち)の神獣鏡があった。景初3年(239)は、卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)に遣使して銅鏡100面などを与えられた年にあたるが、銅鏡そのものの製作年代については4~5世紀ごろとする説がある。東槨と西槨には甲冑(かっちゅう)を副葬し、東槨には巴(ともえ)形銅器をつけた盾や中国の五銖銭(ごしゅせん)などがあった。

[森 浩一]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「黄金塚古墳」の解説

黄金塚古墳
こがねづかこふん

大阪府和泉市上代にある古墳前期の前方後円墳。墳長85m,後円部径57mで,埴輪・葺石(ふきいし)をもち,周濠の跡がある。後円部に3基の粘土槨(かく)があり,中央棺は長さ8.7mの割竹形木棺,東・西棺は4mの箱形木棺。3棺の内外から,三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡などの鏡6面をはじめ,玉類・鍬形石・石釧(いしくしろ)・車輪石・筒形石製品,衝角付冑(しょうかくつきかぶと)・短甲などの武具,刀剣・槍・銅鏃・鉄鏃などの武器,各種の農工具類など豊富な副葬品が出土。画文帯神獣鏡は景初3年(239)銘をもち,刀剣などとともに中央槨の西側粘土中にあった。東棺内では五銖銭(ごしゅせん),水晶製大型切子玉のほか,槨外におかれた巴形(ともえがた)銅器を装着した盾も注目される。景初3年銘の鏡は「魏志倭人伝」中の卑弥呼(ひみこ)が下賜されたという鏡との関連から,多くの議論をよんでいる。国史跡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黄金塚古墳」の意味・わかりやすい解説

黄金塚古墳
こがねづかこふん

大阪府和泉市上代町にある古墳。丘陵の端に造られた前方後円墳で,1950,51年に発掘された。3個の粘土槨があり,鏡,玉,剣,甲冑,鉄鏃,銅鏃,巴形銅器その他多数の副葬品も発見されたが,なかでも景初3 (239) 年の紀年銘のある鏡はその年代からみて,魏が卑弥呼に贈った 100枚の銅鏡に関係があるのではないかという説もあり,重要な遺物である。

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国指定史跡ガイド 「黄金塚古墳」の解説

こがねづかこふん【黄金塚古墳】


和泉黄金塚古墳(いずみこがねづかこふん)

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