黄巾の乱(読み)こうきんのらん

精選版 日本国語大辞典 「黄巾の乱」の意味・読み・例文・類語

こうきん【黄巾】 の 乱(らん)

中国の後漢末期、張角を首領として起こった農民の反乱。黄帝老子の教えと称する太平道という一種の宗教組織のもとで困窮した農民を集め、一八四年各地の信徒数十万を蜂起させた。農民たちは黄色の布をまとって目印としたので、当時の朝廷はこれを黄巾、あるいは黄巾の賊と称した。

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デジタル大辞泉 「黄巾の乱」の意味・読み・例文・類語

こうきん‐の‐らん〔クワウキン‐〕【黄巾の乱】

中国で後漢末期に、張角が首領となって起こした農民の反乱。184年、黄老の教えに基づく太平道を奉じ、全員が土の徳を示す黄色い布を付けて決起したが、張角の死で衰え、平定された。黄巾の賊。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黄巾の乱」の意味・わかりやすい解説

黄巾の乱
こうきんのらん

中国、後漢(ごかん)末の農民反乱。後漢代後半、豪族の大土地所有の進展につれて、多数の農民が土地を失って没落した。また外戚(がいせき)、宦官(かんがん)、党人官僚三つどもえの政争によって中央政府の機能は低下し、洪水や干魃(かんばつ)や流行病がしきりに発生した。鉅鹿(きょろく)(河北省南部)の人張角(ちょうかく)は、黄帝(こうてい)信仰や道家(どうか)学説を含む初期道教の一派である太平道(たいへいどう)を創始して、大賢良師(たいけんりょうし)と自称した。教義による呪術(じゅじゅつ)と信徒本人の懺悔(ざんげ)、反省によって病気が治るという太平道の教えは、黄河下流域の多数の貧困と病気に苦しむ農民たちをその教団に組織することに成功した。たまたま後漢霊帝(れいてい)代の184年は、60年を1周期とする干支(かんし)の最初の年、すなわち甲子の年にあたっていた。「蒼天(そうてん)すでに死せり。黄天まさに立つべし。歳は甲子に在(あ)り。天下大吉」というスローガンを掲げた張角は、この年2月、目印として互いに黄色い頭巾を着用した30余万の信徒を率いて反乱を起こした。後漢政府が党人官僚への弾圧を中止して黄巾討伐全力をあげたこと、張角が陣中において病死したことなどにより、反乱の主流は年内に平定されたが、その余党は10年以上にわたって各地に蜂起(ほうき)しては離合集散した。武力を伴った中央における政治抗争と、行政官や将軍たちの地方割拠と絡み合いながら、黄巾の余党の活動は後漢帝国の統一政府としての実質に重大な打撃を与えた。

[多田狷介]

『木村正雄著『中国古代農民叛乱の研究』(1979・東京大学出版会)』『福井重雅著『古代中国の反乱』(教育社歴史新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「黄巾の乱」の意味・わかりやすい解説

黄巾の乱 (こうきんのらん)

中国,後漢(25-220)末の宗教反乱。黄色の頭巾をつけて目印にしたので黄巾huáng jīnとよばれた。後漢中期になると豪族が大土地所有を基盤に村落社会を支配,伝統的な村落秩序は崩壊する。天災と飢饉も頻発し,窮迫した農民は豪族に隷属し,あるいは流亡化して華北には膨大な没落農民・流民が発生した。時の政権は腐敗を極めて事態は悪化,これに抵抗した儒家・士大夫の運動も党錮の禁で挫折する。そのころ鉅鹿(河北省)の張角が〈太平道〉を創唱,罪のざんげによる療病と倫理的な生き方を説き,疫病の蔓延(まんえん)に苦しみ,村落社会から疎外された没落農民・流民を救済して,十数年間に数十万の信徒を得て各地に教団を組織した。184年(中平1)張角らは後漢王朝の滅亡と新たな社会〈黄天〉の樹立を叫んで一斉に蜂起,政府は党禁を解いて結束を固め,10ヵ月後に鎮圧した。だが黄巾余党や五斗米道の宗教反乱,一般の民衆反乱が続発,地方秩序は解体して群雄の割拠を招来,後漢王朝は滅亡する。
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百科事典マイペディア 「黄巾の乱」の意味・わかりやすい解説

黄巾の乱【こうきんのらん】

中国,後漢末の宗教的な農民反乱。政府の太平道への弾圧に対して184年,その首領張角によって起こされた。後漢の火徳に代わる意味で土徳を示す黄色の頭巾(ずきん)をつけたので黄巾と呼ばれる。反徒10万余が殺され,張角も病死して10ヵ月後に鎮定されたが,やがて後漢の滅亡を招くことになった。
→関連項目魏晋南北朝時代三国演義三国時代(中国)鄭玄劉備

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黄巾の乱」の意味・わかりやすい解説

黄巾の乱
こうきんのらん
Huang-jin; Huang-chin

中国,後漢末の農民反乱。黄巾を標識としたためこの名がある。後漢朝も2世紀末には外戚,宦官,官僚が権力争いを繰返して政治が乱れた。地方では天災飢饉が続発し,農民の反乱が絶えなくなった。鉅鹿の人張角が,みずから大賢良師と号し,罪過の反省と懺悔による病気の治癒を説いた太平道は,たちまち生活苦に迫られた農民のなかに広まり,地方の小役人も包み込んでわずか 10年余のうちに信徒数十万に達し,その範囲は華北はもちろん遠く四川にも及んだ。張角はそれらの信徒約1万を方という教団に編成し,その数 36方を数えたが,政府が弾圧をもってこれにのぞむと,中平1 (184) 年2月,檄を全教団に飛ばして 36方一斉に蜂起。みずから天公将軍と号し,黄巾を標識とした。張角の病死後,黄巾軍は衰えたが,残党や呼応して蜂起した農民の反乱が相次ぎ,北方民族の侵入もあって,漢朝の権威はまったく衰えた。以後宮廷では宦官が権力をふるい,黄巾討伐に功のあった曹操などの武将や,董卓などの有力豪族が互いに勢力を競うことになった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「黄巾の乱」の解説

黄巾の乱(こうきんのらん)

後漢末の農民反乱。生活に苦しむ農民が迷信に走り,支配に反抗する風潮を利用して張角の唱える太平道が民心をとらえ,信徒は10年間で山東,河北を中心に,河南,長江岸まで数十万に達した。張角は信徒を軍隊に編成して,184年河北で政府打倒の兵を起こしたため大乱となった。衆徒は目印に黄巾を着けた(黄色は五行思想で漢朝の交替を示す)。政府は地方豪族の協力を得て同年末に中心勢力を鎮定したが,その後残党,与党の反乱が各地で起こり,中央政府の威信は失われ,討伐の諸将も各地に割拠して,後漢王朝滅亡の一因となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「黄巾の乱」の解説

黄巾の乱
こうきんのらん

後漢 (ごかん) 末期の184〜192年,河北の張角を首領として起こった農民反乱
霊帝のとき,張角は民間信仰の太平道を広めて教団を組織し,反政府的な土豪や農民を吸収して反乱を起こした。五行思想では後漢は火の徳をもつが,これに代わるものとして,土の徳を示す黄色の頭巾 (ずきん) を着けたのでこの名がおこった。豪族の軍隊に鎮圧され,反徒10万人あまりが殺され,張角も病死して乱は鎮圧された。しかし,この乱を契機に各地に豪族が自立して,後漢の滅亡は決定的となった。また184年という年は,「甲子」の年とされ,古代中国の讖緯説によれば「ものごとの始まり」の年とされているので,反乱軍はこれを利用し,挙兵した。

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世界大百科事典(旧版)内の黄巾の乱の言及

【漢】より

…かくして後漢王朝がもはや農民の保護者たり得なくなったときに,農民の不満が爆発した。それが黄巾の乱であった。
[党錮と黄巾の乱]
 後漢も和帝の時代を過ぎると早くも衰退の色が濃くなった。…

【太平道】より

…大方は1万余人,小方は6000~7000人を数えたこの組織を中心として,王朝末期の窮乏農民は,184年いっせいに蜂起した。すなわち〈黄巾(こうきん)の乱〉である。張角は天公将軍と称し,弟の地公将軍張宝,人公将軍張梁とともに反乱の指導者となった。…

※「黄巾の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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