麻生久(読み)アソウヒサシ

デジタル大辞泉 「麻生久」の意味・読み・例文・類語

あそう‐ひさし〔あさふ‐〕【麻生久】

[1891~1940]政治家。大分の生まれ。社会運動家から日本労働総同盟幹部となり、のち、日本労農党結成衆議院議員当選後は新体制運動参加。著「濁流に泳ぐ」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「麻生久」の意味・わかりやすい解説

麻生久
あそうひさし
(1891―1940)

大正~昭和時代の社会運動家、政治家。明治24年5月24日大分県生まれ。東京帝国大学法学部卒業後、新聞記者となり、黎明会(れいめいかい)を組織した。友愛会に入り、日立鉱山夕張(ゆうばり)鉱山、足尾銅山などで労働運動を指導し、1920年(大正9)全日本鉱夫総連合会を組織した。1926年日本労農党を結成し、以後無産諸政党のうち中間派のリーダーとして、日本大衆党、全国労農大衆党社会大衆党書記長歴任。1933年(昭和8)ごろから徐々に親軍的傾向を強めた。1936年から代議士。のち近衛文麿(このえふみまろ)の側近グループに加わり、近衛新党結成を画策し、1940年(昭和15)には新体制準備委員となったが、まもなく同年9月6日急死した。第一次世界大戦後の社会運動の発展とともに現れた東大新人会系のリーダーであり、行動的な親分肌の人物であった。その後半生では、無産政党をファッショ化へ導くことになった。

吉見義明]

『麻生久伝記刊行会編『麻生久伝』(1958・同伝記刊行会)』

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百科事典マイペディア 「麻生久」の意味・わかりやすい解説

麻生久【あそうひさし】

政治家。大分県出身。東大法科卒後,新人会結成に参加,1919年友愛会に入り,翌年全日本鉱夫総連合会を結成,のち総同盟政治部長となる。日本労農党全国大衆党社会大衆党の書記長を歴任,五・一五事件後急速に陸軍統制派,日中戦争開始前後からは近衛文麿接近新体制運動に積極的に参加した。
→関連項目全国労農大衆党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「麻生久」の意味・わかりやすい解説

麻生久
あそうひさし

[生]1891.5.24. 大分
[没]1940.9.6. 東京
社会運動家,政治家。東京帝国大学卒業後,東京日日新聞に入ったがまもなく退社友愛会に入り出版部長に就任,社会運動家として活動に乗出した。富士紡争議,尾小屋争議,三越争議,夕張争議,足尾争議などを指導,その間たびたび投監された。 1926年右派の社会民衆党に対して日本労農党を創立し,同党中央執行委員,書記長をつとめ,以後無産政党中間派の中心的人物として日本大衆党中央執行委員長,全国労農大衆党書記長,同中央執行委員長を歴任した。 32年全国労農大衆党と社会民衆党大同団結して社会大衆党が成立するや,委員長安部磯雄のもとに書記長に就任した。しかし戦時体制の強化とともに次第に親軍的色彩を強め,鈴木文治ら旧社民党系グループと対立,社会大衆党は解党するにいたった。その後近衛文麿内閣の新体制準備委員に就任するなど,その政治姿勢は一貫性を欠いた。衆議院議員当選2回。伝記に刊行委員会編『麻生久伝』がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「麻生久」の意味・わかりやすい解説

麻生久 (あそうひさし)
生没年:1891-1940(明治24-昭和15)

無産政党の指導者。大分県生れ。東京帝大法学部卒業。1918年吉野作造らの黎明会の結成に奔走。新人会に参加。翌年友愛会本部に入る。以後全日本鉱夫総連合会の結成,夕張炭鉱,足尾銅山の争議などで活躍。26年日本労農党を結成。以後中間派無産政党を率いて,32年社会大衆党の結成に参加し,書記長に就任。このころから陸軍統制派に接近。36-37年総選挙で社会大衆党を躍進させた。日中戦争開始前後から近衛文麿に接近して,近衛新党を画策。40年新体制運動が始まると率先解党して,新体制準備委員となったが,急死。社会大衆党ファッショ化の推進者であった。著書に《濁流に泳ぐ》《黎明》《無産政党とは何ぞや》などがある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「麻生久」の解説

麻生久 あそう-ひさし

1891-1940 大正-昭和時代前期の労働運動家,政治家。
明治24年5月24日生まれ。東京日日新聞記者となり,黎明(れいめい)会,友愛会などに参加。大正9年全日本鉱夫総連合会を創立し,北海道夕張炭鉱などの労働争議を指導。昭和7年社会大衆党書記長となり,11年衆議院議員(当選2回)。のち近衛文麿の新体制運動に協力し,社大党を解党。昭和15年9月6日死去。50歳。大分県出身。東京帝大卒。

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旺文社日本史事典 三訂版 「麻生久」の解説

麻生久
あそうひさし

1891〜1940
大正・昭和期の労働運動家
大分県の生まれ。東大卒業後,社会・労働運動に身を投じ,日本労農党委員長・社会大衆党書記長などを歴任して活躍した。しかし1933年ころから軍部との結合をはかり近衛文麿の新体制運動に協力した。

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世界大百科事典(旧版)内の麻生久の言及

【浅沼稲次郎】より

…同年12月,日本労農党に移り,組織部長に就任,以後中間派社会民主主義の路線を歩む。32年社会大衆党結成のさい常任中央委員となり,翌年東京市議会議員に当選,36,37年の総選挙に当選したが,反軍演説の斎藤隆夫の除名に賛成するなど,麻生久と同一行動をとった。42年の翼賛選挙では非推薦のため立候補を断念,翌年8月,東京都議会議員に当選,初代副議長に選出された。…

【解放】より

…創刊号の定価38銭。20年6月号から麻生久,山名義鶴らが結成した解放社によって編集された。創刊号に〈宣言〉をかかげるなど,他の総合雑誌とは性格を異にし,労働問題,社会問題がとくに重視され,社会主義思想の影響を強く受けた。…

【社会大衆党】より

…このため孤立を恐れた両党は合同することによって危機をのりきろうとした。委員長安部磯雄(旧社民系),書記長麻生久(旧日労系)として結党し,機関紙《社会大衆新聞》を発行。社会民衆党の三反主義(反資本,反共,反ファシズム)を継承して,戦争に反対せず,反共主義の立場をとり,他方で露骨な国家社会主義とも一線を画した。…

【新人会】より

…東京帝国大学の学生を中心とする思想運動団体。1918年12月5日,吉野作造の弟子麻生久,赤松克麿,宮崎竜介らが新しい思想の伝達者,社会改造の担い手をめざして結成,翌19年2月には機関誌《デモクラシイ》を創刊した(1920年2月《先駆》,同年10月《同胞》と改題)。同月には東京亀戸の工場地帯に入り共産党指導者となる渡辺政之輔を中心とする分会を設立したのをはじめ,全国各地に支部を設けた。…

【全国大衆党】より

…中間派社会民主主義の無産政党。1930年7月,日本大衆党,全国民衆党,無産政党戦線統一全国協議会の合同により結成され,議長麻生久,書記長三輪寿壮,同年末の党員数約3万8000人,おもな支持団体は全国労働組合同盟,日本労働組合総連合であった。同党は,失業反対闘争,浜口雄幸内閣打倒などの運動とともに無産政党合同に全力を注ぎ,30年12月の党大会で社会民衆党,労農党に合同を提唱,社民党の拒否にあったが,翌年3月労農党および一部社民党員と無産党合同促進委員会を結成,7月に全国労農大衆党の成立をみた。…

【全国労農大衆党】より

…1930年総選挙での無産政党の惨敗(当選5名)がきっかけとなり,全国大衆党労農党社会民衆党の分派である三党合同実現同盟の合同により結成された。書記長麻生久。31年府県会選挙での当選者13名。…

【日本労農党】より

…左派の労農党,右派の社会民衆党と対比され中間派とよばれた。書記長三輪寿壮,のち麻生久。おもな役員は田所輝明,浅沼稲次郎,河野密,三宅正一らで,その人脈は戦後の日本社会党にまでつながっている。…

【陸軍パンフレット事件】より

…しかし,おりから進行中の在満機構改革や翌年の天皇機関説問題は,事態がこのパンフレットの提唱する方向に沿って展開していることを示した。一方,社会大衆党書記長麻生久は党機関紙において陸軍パンフレットの支持を表明し,軍部との提携を唱え,無産運動陣営に大きな波紋を起こした。【江口 圭一】。…

※「麻生久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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