麦積山石窟(読み)ばくせきざんせっくつ(英語表記)Mài jī shān shí kū

精選版 日本国語大辞典 「麦積山石窟」の意味・読み・例文・類語

ばくせきざん‐せっくつ ‥セキクツ【麦積山石窟】

中国、甘粛省天水県の南東秦嶺山脈西端にある仏教石窟山容が積まれた麦に似ているため、この名がある。礫岩の石窟内には、塑像壁画多数あり、石像もある。制作年代は北魏以降で、のち宋代に大修理が行なわれた。

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デジタル大辞泉 「麦積山石窟」の意味・読み・例文・類語

ばくせきざん‐せっくつ〔‐セキクツ〕【麦積山石窟】

中国、甘粛省天水県の南東にある麦積山に残る石窟寺院。194の石窟や磨崖仏現存造営代に及び、各時代の塑像・壁画・磨崖仏など多数を残す。

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改訂新版 世界大百科事典 「麦積山石窟」の意味・わかりやすい解説

麦積山石窟 (ばくせきざんせっくつ)
Mài jī shān shí kū

中国,甘粛省天水県の南東30km,秦嶺山脈の西端に位置する石灰岩の仏教石窟。高さ142mに達する,農家の麦を積みあげた形状に似る孤丘で,麦積崖ともよばれる。1952年冬に西北文化部,53年7月に麦積山勘察団が調査した。調査によると,第115号窟には,墨書による北魏宣武帝景明3年(502)の張元伯造石室一区の発願文があって最古の銘文だが,《梁高僧伝》には曇弘が永初年間(420-422)に麦積山に隠居し,玄高がここで曇弘に会ったとき,つねに学徒は300余人だったというから,5世紀初めにはすでに開掘されていたことがわかる。北斉・隋を経て唐・五代・宋・明・清まで引き続き造営修補がおこなわれたが,敦煌千仏洞のような元代の壁画や造像が無い点,特異である。調査結果は,石窟・龕(がん)・磨崖の彫刻を含めて194を数えている。

 山崖の中央にある自然崩裂によって東崖と西崖に分かれる。東崖には,1号窟の涅槃(ねはん)窟,3号窟の千仏廊,4号窟の散花楼上七仏閣,5号窟の牛児堂など規模が大きく,重要な窟がある。千仏廊は全長32.74mに達し,2段にわたる石芯泥塑の座仏258軀が崖面にあり,後代の修補があるが,もとは5世紀にさかのぼる像。涅槃窟は6世紀の開掘で,窟前に6本の列柱を立て,涅槃像は明代重修を経ている。散花楼上七仏閣は麦積山中最大規模で,地表より50m,間口31m,奥行き7mで,前廊両端に八角柱を彫り,力士像(宋重修)を置き,主室は方形平面に四注式天井をもつ同規模の仏堂七つを彫り出す。堂正面左右の柱形は北魏ないし北斉の様式を示す。西崖の三大窟は北魏末とみられ,そのうち天堂洞には北魏の騎兵戦壁画,127号窟の三角持送り天井・四壁にも北魏の騎馬戦図や捨身飼虎図,その他を描き,塑像も後代重修のほとんどない北魏様式を示している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「麦積山石窟」の意味・わかりやすい解説

麦積山石窟
ばくせきざんせっくつ

中国、甘粛(かんしゅく)省天水県の南東45キロメートルにある石窟寺院。この山の名は、麦藁(むぎわら)を積み重ねたような山容に由来するが、『高僧伝』中にもみえ、420年ごろにはすでに300人もの僧が常住していたことを伝えている。北魏(ぎ)時代に開かれた石窟や仏龕(がん)が多く、その後、西魏、北周、隋(ずい)、唐、宋(そう)と造営が続けられた。石窟は、山の南面の中央に崩壊した箇所があり、これを境にして東崖と西崖に二分される。現存の石窟と摩崖(まがい)仏は東西で194を数え、窟内には仏像や壁画、天井画が残っている。東崖では、第1号涅槃(ねはん)窟、第3号千仏廊、第4号散花楼上の七仏閣、第5号牛児堂(ぎゅうじどう)洞、第13号摩崖大仏など、西崖では、第98号摩崖大仏、第133号万仏堂(ばんぶつどう)洞、第135号天堂洞などが著名で、これらの石窟は、そそり立つ断崖に幾重にもつくられた桟道によって互いに連絡している。彫像には石像、塑像、石胎(せきたい)塑像があり、いずれも陝甘(せんかん)地域の様式を踏んだ彫りの浅い造形に特色がみえ、壁面に描かれた仏伝図など中国美術史の宝庫として注目される。

[吉村 怜]

『名取洋之助著『麦積山石窟』(1979・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「麦積山石窟」の意味・わかりやすい解説

麦積山石窟【ばくせきざんせっくつ】

中国,甘粛省天水県にある石窟寺院。1952年中国政府の組織的調査が行われた。194の石窟,磨崖仏があり,北魏に始まり,明清に至る各時代に造営,補修が行われたが,隋唐に栄え,宋代の修理部分が多い。塑造,石造の仏像や壁画,建築様式を表現した彫刻など重要な資料が多い。
→関連項目天水

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「麦積山石窟」の意味・わかりやすい解説

麦積山石窟
ばくせきざんせっくつ
Mai-ji-shan shi-ku

中国,甘粛省天水市の南東 45kmにある石窟寺院。秦嶺山脈の西端にあり,1952年に発見された。麦を積上げたような山の形から麦積の名称がある。石質は礫岩で,東崖と西崖に分れている。北魏,西魏,北周,隋,唐,宋,明代に続営された 194の窟龕が現在知られている。東崖の涅槃窟,千仏廊,西崖の万仏洞,天堂洞,第 127洞などは北魏の開削で,塑像,石像,壁画などにすぐれたものがみられるが,隋,唐代にも栄えたと考えられる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「麦積山石窟」の解説

麦積山石窟
ばくせきざんせっくつ

中国甘粛 (かんしゆく) 省天水 (てんすい) の南東にある仏教石窟寺院
秦嶺 (チンリン) 山脈の西端,川に沿った岩壁に194か所の石窟と磨崖仏がある。1952〜53年に調査され,5世紀半ばごろ北魏 (ほくぎ) に始まり,北周・隋から清代にかけても造営や修理が行われたことが明らかとなった。窟内の仏像や壁画は各時代の特色をよく示している。

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世界大百科事典(旧版)内の麦積山石窟の言及

【甘粛[省]】より

…この敦煌莫高窟,一般には千仏洞の名で知られるこの地の490余の洞窟群は,4~14世紀にかけて掘られた石窟寺,すなわち横穴式の寺院であるが,そこにある大量の壁画と仏像は,中国の歴史や美術にとっては貴重な資料であって,この石窟は中国三大石窟芸術宝庫の一つといわれている。また,天水には,約7000余の仏像がある麦積山石窟と高さ27mの石仏座像のある永靖炳霊寺石窟とがあり,これらはいずれも約1500年の歴史を有している。そのほか,甘粛回廊にある嘉峪関は,明代14世紀後半に万里の長城の西端に建設され,〈天下雄関〉と称せられた関城である。…

※「麦積山石窟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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