鹿都部真顔(読み)しかつべまがお

精選版 日本国語大辞典 「鹿都部真顔」の意味・読み・例文・類語

しかつべ‐まがお ‥まがほ【鹿都部真顔】

江戸後期の戯作者狂歌師。通称北川嘉兵衛。江戸数寄屋橋で汁粉屋を営む。戯作恋川春町師事恋川好町(すきまち)と称した。狂歌は蜀山人大田南畝に学び、狂歌堂四方真顔などと号し、宗匠の号を許された。狂歌では宿屋飯盛石川雅望)と終生ライバルであった。黄表紙「元利安売鋸商内(がんりやすりのこぎりあきない)」などを著わす。宝暦三~文政一二年(一七五三‐一八二九

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デジタル大辞泉 「鹿都部真顔」の意味・読み・例文・類語

しかつべ‐の‐まがお〔‐まがほ〕【鹿都部真顔】

[1753~1829]江戸後期の狂歌師黄表紙作者。江戸の人。本名、北川嘉兵衛。戯作名、恋川好町。狂歌俳諧歌と改称して和歌の優雅さをもたせようとした。大田南畝おおたなんぽ引退後の狂歌界の中心人物
[補説]「鹿津部」とも書く。

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朝日日本歴史人物事典 「鹿都部真顔」の解説

鹿都部真顔

没年:文政12.6.6(1829.7.6)
生年:宝暦3(1753)
江戸時代の狂歌作者。通称は北川嘉兵衛。鹿津部真顔とも。紀真顔,狂歌堂,万葉亭,四方歌垣,四方真顔など,多くの別号があり,恋川好町の戯号では洒落本,黄表紙を書いた。江戸数寄屋橋門外で汁粉屋を営む。早くは天明2(1782)年の「三囲社頭狂歌」に狂詠がみえる。翌3年の『万載狂歌集』『狂歌若葉集』にも入集,はじめ,元木網門下で「落栗連」に属していたが,4年ごろ,四方赤良(大田南畝)の「四方側」に入り,さらに同年中に算木有政らと「スキヤ連」を結び,主宰者となった。狂歌評判記『俳優風』(1785年か)では,後年確執を生じた宿屋飯盛(石川雅望)が立役巻頭,真顔は巻軸におかれて称揚されている。同7年ごろには,馬場金埒,頭光,飯盛と共に「狂歌四天王」と称されるにいたった。寛政3(1791)年に冤罪により江戸払いとなった飯盛に対し,真顔は寛政6年に赤良から四方姓を譲られ,四方真顔と号して,以後没するまで狂歌壇の雄たる存在となった。文化5(1808)年ごろより,狂歌は天明振りをよしとする飯盛に対して,真顔は鎌倉・室町期の狂歌こそが本来の姿であるとして,和歌に接近した狂歌=俳諧歌を提唱し,飯盛との間に論争を生じる。 また,真顔は狂歌の点料で生計をたてた最初の人でもあり,化政期には門人は3000人といわれ,その勢力範囲は北は陸奥から南は九州にまでおよんでいた。しかし,性格には尊大なところがあり,文政11(1828)年に京都の縉紳家より宗匠号を贈られてからは水干烏帽子をつけ,堂上的な態度で人に接したと伝えられるが,その俳諧歌は面白味に欠け,一般からは親しまれなかった。晩年は家庭的にも恵まれず,貧窮のうちに没し,万巻の蔵書は散逸した。

(園田豊)

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改訂新版 世界大百科事典 「鹿都部真顔」の意味・わかりやすい解説

鹿都部真顔 (しかつべのまがお)
生没年:1753-1829(宝暦3-文政12)

江戸後期の狂歌師,黄表紙作者。江戸の人。本名は北川嘉兵衛。別号は狂歌堂,四方歌垣(よものうたがき),俳諧歌場。数寄屋橋外の汁粉屋で,はじめは恋川好町(すきまち)の名で黄表紙作者。狂歌は四方赤良(よものあから)(大田南畝)に師事して判者を譲られ,四方側の領袖となる。狂歌四天王の一人。天明狂歌の第二世代として宿屋飯盛(石川雅望)と双璧をなすが,純粋天明調を首唱する飯盛に対し,狂歌を優美高尚なものにしようとして俳諧歌と呼んだ。《狂歌数寄屋風呂》《どうれ百首》など編著も多い。〈かすていらかすむ夕べは杉折の杉間の月もおぼろ饅頭〉(《狂歌才蔵集》)。
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百科事典マイペディア 「鹿都部真顔」の意味・わかりやすい解説

鹿都部真顔【しかつべのまがお】

江戸後期の狂歌師。本名北川嘉兵衛。別号狂歌堂,四方歌垣(よものうたがき),恋川好町。江戸数寄屋橋外で汁粉屋を業とした。四方赤良(大田南畝)の門人で,天明狂歌の第2世代,職業的狂歌師の嚆矢(こうし)。俳諧(はいかい)歌を唱え,優美な風調を旨とし,宿屋飯盛と対立した。門人多く,文化文政期の一大勢力をなした。著書に《狂歌数寄屋風呂》などの狂歌集や黄表紙などがある。
→関連項目石川雅望

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鹿都部真顔」の意味・わかりやすい解説

鹿都部真顔
しかつべのまがお

[生]宝暦3(1753).江戸
[没]文政12(1829).6.6. 江戸
江戸時代後期の狂歌作者。本名,北川嘉兵衛。別号,狂歌堂,四方歌垣 (よものうたがき) 。戯作名,恋川好町など。江戸,数寄屋橋外で汁粉屋を業とし,恋川春町について黄表紙を著わし,また四方赤良 (よものあから。大田南畝) の門人となって狂歌を学んだ。狂歌四天王の一人と称され,赤良引退後は一方の旗頭として従来の卑俗な落首体を排し,上品で優雅な狂歌を本筋とすべきことを主張,みずからの狂歌を俳諧歌と称した。そのため四天王の一人宿屋飯盛 (石川雅望) と論争したが,赤良の調停で文化 14 (1817) 年に和解。家集『狂歌数寄屋風呂』 (1791) ,『狂歌阿豆麻風流』 (1806) ,『蘆荻集』 (16) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鹿都部真顔」の解説

鹿都部真顔 しかつべの-まがお

1753-1829 江戸時代中期-後期の狂歌師。
宝暦3年生まれ。江戸数寄屋橋門外で汁粉屋をいとなみ,恋川好町(すきまち)の名で戯作(げさく)をかく。のち四方赤良(よもの-あから)(大田南畝(なんぽ))にまなび,四方真顔の名で狂歌の判者となる。俳諧(はいかい)歌(和歌に接近した狂歌)をとなえ,宿屋飯盛(めしもり)(石川雅望(まさもち))と文化・文政期の狂歌壇を二分した。文政12年6月6日死去。77歳。姓は北川。通称は嘉兵衛。編著に「類題俳諧歌集」など。
【格言など】味(うま)く喰ひ暖かく着て何不足七十ななつ南無阿弥陀仏(辞世)

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世界大百科事典(旧版)内の鹿都部真顔の言及

【狂歌】より

唐衣橘洲(からごろもきつしゆう),四方赤良(よものあから),朱楽菅江(あけらかんこう),元木網(もとのもくあみ),平秩東作(へずつとうさく),智恵内子(ちえのないし)らはその錚々たる者で,豊かな趣味教養と軽妙洒脱な機知とを併せもつ人々である。これに次ぐ江戸狂歌の第二世代として宿屋飯盛,鹿都部真顔(しかつべのまがお),頭光(つぶりひかる),馬場金埒の狂歌四天王があり,なかでも天明調の純正狂歌を主張する飯盛と,優美高尚な狂歌を主張して〈俳諧歌〉と称した真顔は,文政(1818‐30)に至るまで長くライバルとして活躍した。文政以後は芍薬亭長根,文々舎蟹子丸らが活躍した。…

※「鹿都部真顔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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