鹿屋郷(読み)かのやごう

日本歴史地名大系 「鹿屋郷」の解説

鹿屋郷
かのやごう

肝属きもつき川上流の笠野原かさのはらおよび鹿屋原かのやばるの台地に挟まれた低地と台地麓を中心とし、西方の高須たかす川河口の高洲たかすに飛地がある。東は串良くしら郷、北は高隈たかくま郷、南は大姶良おおあいら郷に続く。肝属郡に属し、鹿児島藩の外城の一。天正二年(一五七四)島津氏に肝付氏が服すると、当地は島津氏の直轄領となった(「樺山紹剣自記」旧記雑録)。同八年鹿屋に就封したとされる伊集院忠棟(幸侃)は、鹿屋城下の整備や定期市の開設、街道整備や用水開削など江戸期の当郷繁栄の基礎を築いたと伝える。文禄検地後幸侃が日向国庄内に移されると、垂水島津家忠仍(久信)の私領とされ、文禄四年(一五九五)忠仍は清水きよみず(現国分市)より当地に転じて鹿屋・大姶良の諸所八千石を与えられたという(「垂水領主島津家家譜写」垂水市立図書館蔵)。慶長二年(一五九七)には鹿屋に移ったが、同九年に垂水たるみずに移り当郷を兼領したとされる(同家譜写)。同一七年に久信は隠居(垂水市史)、久信の子で新城島津家の久章は鹿屋のうち新城しんじように三千七〇〇石を与えられ(同家譜写)、新城島津家を創設、鹿屋の大部分がその私領となった。正保二年(一六四五)久章が島津光久に背いて誅され、領地の鹿屋・新城は鹿児島藩直轄領となった(のち新城家は再興され、新城を領した)。久章の知行高は六千五二七石余で、うち鹿屋郷一千九〇二石余、新城郷八八四石余、日向国諸県もろかた郡諸村九四一石余、夫人(大和守家久の女)化粧料一千石、隠居料一千八〇〇石であったという(垂水市史)

鹿屋郷
かのやごう

和名抄」所載の郷。同書の諸本とも訓を欠く。カヤと読んだ可能性もあろう。郷名は中世の鹿屋院、近世の鹿屋郷と継承され、現鹿屋市がその主要部と考えられる。古い住居地は肝属きもつき川の形成した谷底平野と周辺の笠野原かさのはら鹿屋原かのやばる郷之原ごうのはらなどの台地山麓に営まれたとみられるが、笠野原台地末端の王子おうじ遺跡(弥生時代中期末)のように飲水の確保に工夫のいる場所にも集落跡が検出されている。同遺跡では棟持柱をもつ建物跡も検出され、その伝播ルートを含めて注目を集めた。また古墳時代の祓川はらいがわ地下式横穴墓から短甲・衝角付冑などが出土、肝属川上流域に勢力の存在をうかがわせるが、おそらく肝属川下流域を主勢力圏とした大隅直の一族が大隅半島中心部にあたる鹿屋地域に勢力を伸張させていたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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