鶴ヶ岡城跡(読み)つるがおかじようあと

日本歴史地名大系 「鶴ヶ岡城跡」の解説

鶴ヶ岡城跡
つるがおかじようあと

[現在地名]鶴岡市馬場町

うち川西岸標高一五メートルの平地にある中世から近世の城跡。中世には大宝だいほう(梵)城とよばれた。築城の時期は不詳。大泉おおいずみ庄地頭大泉氏平の系譜を引くという武藤氏により築かれたとされ、武藤氏は大宝寺氏とも称された。大泉荘当家藤原殿前七代系図(本間美術館蔵)には、武藤長盛の時より大宝寺に居住したとある。その時期等については検討の余地があるが、「筆濃余理」には長盛は文和二年(一三五三)家督を継ぎ、大梵寺に居住したと記される。また前出系図には、長盛の弟師氏は鎌倉に伺候し、「公方様婿」となったとも記されるから、室町期初めには当城が築かれていたと考えられる。武藤氏は大宝寺を本拠に庄内三郡に勢力を張り、室町幕府とも結び付くようになる。宝徳二年(一四五〇)と推定される四月一一日付僧有良書状(醍醐寺文書)によれば、山城醍醐寺三宝さんぼう院領の赤宇曾(現秋田県由利郡岩城町)に関する相論で、大宝寺氏か奥州探題大崎氏に相談するよう指示されており、同地一帯に関して大宝寺氏は大崎氏と同様の影響力をもっていたことがうかがえる。寛正元年(一四六〇)一〇月二一日には足利成氏追討が将軍足利義政から大泉右京亮(武藤淳氏)に命じられ、淳氏は同三年九月には出羽守に任じられた(御内書案)。同六年には将軍の命により淳氏(大宝寺出羽守)から馬が数度進上されている(「蜷川親元日記」同年九月二日条など)。淳氏の子政氏は文明四年(一四七二)家督を継ぎ、羽黒山別当を兼ね一山をも支配下に入れた(筆濃余理)。しかし戦国期には力をもった庄内各地の武藤氏庶家が本宗家と対立するようになり、天文元年(一五三二)川北の庶家砂越氏の攻撃で城は亡所となり(「来迎寺年代記」伊藤文書)、武藤氏の本拠は西方大浦おおら城に移された。また乱流するあか(のち内川)の水害で城の防備が不安定なため、より堅固な大浦城を本城としたともされる。

天正一六年(一五八八)本庄繁長とその子武藤義勝の庄内侵出の際、当城も焼亡したという。同一八年庄内が越後上杉氏領となると、城番として芋川越前が置かれた(来迎寺年代記)。しかし同年からの太閤検地反対一揆の際、一揆勢に包囲され木戸玄斎の拠る当城は落城したという(筆濃余理)。翌一九年本庄氏・武藤氏は一揆を扇動したとして豊臣秀吉から改易された。同年五月には直江兼続より大宝寺を本城とするための普請が木戸玄斎に命じられており(同年五月二三日「木戸玄斎条書」旧山形県史所収文書)、六月には大宝寺在番の樋口源太左衛門・石倉大膳助・本村監物丞らに兼続から知行が宛行われている(同年六月六日「直江兼続充行状写」別集奥羽文書纂所収文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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