鴻池新田(読み)こうのいけしんでん

日本歴史地名大系 「鴻池新田」の解説

鴻池新田
こうのいけしんでん

[現在地名]東大阪市鴻池〈ほん町・もと町・徳庵とくあん町〉・鴻池町一―二丁目・東鴻池ひがしこうのいけ町一―五丁目・西鴻池にしこうのいけ町一―四丁目・北鴻池きたこうのいけ町・中鴻池なかこうのいけ町三丁目・南鴻池みなみこうのいけ町二丁目・鴻池

若江郡に属し、南は新庄しんじよう村・箕輪みのわ村ほか、東は加納かのう村、北は讃良さらら灰塚はいづか村・茨田まんだ諸福もろふく(現大東市)ほか。宝永元年(一七〇四)大和川付替えの結果新開しんかい池に流入する水量が少なくなったので、池床を開発して新田とした。同年一二月、讃良郡中垣内なかがいとう(現大東市)長兵衛大坂京橋きようばし(現東区)大和屋六兵衛が新開池床二〇〇町歩を地代金一万一千五〇〇両(一反歩につき金五両三歩)落札した(「古川筋川床堤敷・深野池并新開池新田大積帳」田中家文書)

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改訂新版 世界大百科事典 「鴻池新田」の意味・わかりやすい解説

鴻池新田 (こうのいけしんでん)

1704年(宝永1)竣工した大和川付替工事の後に,旧川敷,沼沢地跡を開発して創出された30余の新田の一つ。河内国若江郡の北東隅(現,東大阪市)に位置している。大坂の豪商鴻池家の3代目善右衛門宗利の資力によって旧大和川支流(玉串川)の流末沼沢地の一部を干拓して造成した。町人請負新田の代表例とされている。開発経緯は,05年正月に地代金を上納,同年5月着工,鍬下年季3年を経て07年8月に完成した。検地高870石3升8合,面積120町1反6歩であった。19年(享保4)に再検地を受けて高1706石8斗8升,面積158町8反8畝歩に増加した。沼沢地跡の干拓地であるから,耕地過半は排水事情の劣悪な水田(みずた)(半湿田)であった。新田経営のため開発と同時に新田会所を設け,鴻池家の代理人である新田支配人を置いて管理した。新田の四囲には既存の村落が点在していたので,耕作者には周辺村落からの入作百姓が多く,永小作人は少なかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鴻池新田」の意味・わかりやすい解説

鴻池新田
こうのいけしんでん

大阪府中東部、東大阪市の寝屋川(ねやがわ)左岸沿いの地域。江戸初期までは大和(やまと)川分流の流入する新開池(しんかいいけ)があった。1704年(宝永1)の大和川付け替え後、豪商鴻池善右衛門(ぜんえもん)が干拓して新田とした。旧鴻池新田会所(国の重要文化財。会所跡として国の史跡)が残る。現在は工場地域となっている。JR片町線の鴻池新田駅がある。

[編集部]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鴻池新田」の解説

鴻池新田
こうのいけしんでん

18世紀初頭,河内国若江郡(現,東大阪市)に開発された新田。1704年(宝永元)の大和川の付替えで水量の減少した川床・池床などを開発した新田のうち,大坂の両替商鴻池家が請け負って新開(しんかい)池の池床を開発した。開発にあたり地代金を幕府へ納め,開発費も自費であった。05年開発に着手し,07年に完成。開発面積は約159町歩。開発後は地主となって小作料を徴収した。この経営のため新田内に鴻池新田会所を設けた。

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