鳥居清長(読み)トリイキヨナガ

デジタル大辞泉 「鳥居清長」の意味・読み・例文・類語

とりい‐きよなが〔とりゐ‐〕【鳥居清長】

[1752~1815]江戸後期の浮世絵師。江戸の人。姓は関(一説関口)。俗称、新助、のち市兵衛。初世清満に師事し、鳥居家4代目を継承。長身で健康的ないわゆる「清長風美人」を確立。代表作風俗東之錦」など。

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精選版 日本国語大辞典 「鳥居清長」の意味・読み・例文・類語

とりい‐きよなが【鳥居清長】

江戸中期の浮世絵師。江戸の人。清満の門人。清満没後、鳥居家四代を継承。初め鳥居派風の役者絵美人画を描いたが、しだいにのびやかな描線による清長独自の女性描写が確立され、その女性美は清長美人と俗称されている。代表作に「当世遊里美人合」「風俗東之錦」「美南見(みなみ)十二候」の三大揃物がある。宝暦二~文化一二年(一七五二‐一八一五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鳥居清長」の意味・わかりやすい解説

鳥居清長
とりいきよなが
(1752―1815)

江戸中期の浮世絵師。鳥居家4代目当主で、天明(てんめい)期(1781~1789)を代表する美人画家。江戸の本材木町一丁目の書肆(しょし)白子屋市兵衛の子で、関(一説に関口)氏、俗称新助、のち市兵衛。鳥居家3代目の初代清満(きよみつ)門人。1767年(明和4)ごろから鳥居派伝統の筆法を用いた細判紅摺絵(べにずりえ)の役者絵を発表。1775年(安永4)ごろからは美人風俗画の揃物(そろいもの)や、黄表紙(きびょうし)など版本の挿絵も精力的に描き出し、初め鈴木春信(はるのぶ)、のち礒田湖竜斎(いそだこりゅうさい)や北尾重政(しげまさ)の画風を吸収しながら、しだいに写生に基づく独自の様式を樹立、1781年ごろには湖竜斎にかわり美人画の第一人者となった。背高くすらりとのびやかな八等身の、健康的で生命力にあふれているのが清長美人画の特徴で、1782年(天明2)から1784年ごろに制作した『当世遊里美人合(とうせいゆうりびじんあわせ)』『風俗東之錦(あずまのにしき)』『美南見(みなみ)十二候』は、清長の三大揃物として高く評価されている。そしてこのころから制作されるようになった大判二枚続、三枚続という大画面にも意を注ぎ、江戸の実景を背景にして、女性群像を巧みに表現した秀作が多い。また一方では、舞台図に新様を開拓、複数の役者を大道具小道具とともに描出して、緊迫感のある構成美を生み出した。とくに所作事(しょさごと)の場面を太夫(たゆう)と三味線弾きともども描写した出語図(でがたりず)には、他の追随を許さぬものがある。

 師の清満の死後、1787年ごろに懇請されて鳥居家4代目を継承してからは、鳥居家の家業である看板絵・番付絵に専念、一枚絵の制作から徐々に離れていった。また遺品は多くないが、『柳下納涼(りゅうかのうりょう)図』(ボストン美術館)などの肉筆画や絵本・艶本(えんぽん)にも優れた手腕を発揮している。勝川春潮(かつかわしゅんちょう)、窪俊満(くぼしゅんまん)など天明期の多くの絵師が清長様式を踏襲、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)ら次代の絵師に大きな影響を及ぼすなど、浮世絵美人画の流れのなかで歌麿とともに一つの頂点にたつ絵師として位置づけられている。

[浅野秀剛]

『岡畏三郎解説『浮世絵大系4 清長』(1975・集英社)』『楢崎宗重編『在外秘宝 鳥居清長』(1972・学習研究社)』


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朝日日本歴史人物事典 「鳥居清長」の解説

鳥居清長

没年:文化12.5.21(1815.6.28)
生年:宝暦2(1752)
江戸時代の天明期(1781~89)を代表する浮世絵師。鈴木春信,喜多川歌麿と共に浮世絵派のなかでは最も著名な美人画家で,六大浮世絵師のひとりとされることが多い。江戸の本材木町1丁目の書肆白子屋市兵衛の子で,関(一説に関口)氏,俗称新助,のち市兵衛。鳥居家3代目当主鳥居清満の門人で,師の没後4代目当主となる。画業はおおむね前期,中期,後期に3分できる。前期は明和(1764~72)後期から安永年間(1772~81)(初作は1767年あるいは1770年)で,習作期・研鑽期と位置づけられる。細判役者絵や絵本番付の挿絵にはじまり,安永4,5年ごろからは黄表紙や中判小判の風俗画のシリーズが多くなる。次第に清長色が顕著になってくるが,清満,春信,湖竜斎,春章,重政といった先輩絵師の影響から完全に抜け出してはいない。中期は天明年間で,清長様式の確立期であり全盛期といえる。写生に基づいた背高くのびやかな8等身,健康的で生命力にあふれる美人が清長様式の特徴である。群像表現が巧みで,江戸名所などの背景との融合にすぐれ,続絵の名品も多い。代表作として「当世遊里美人合」「美南見十二候」「風俗東之錦」などのシリーズがある。また,舞台図に新様を開拓し出語り図を制作,絵本や春画,肉筆画の傑作も多く,この期に代表作の大半が集中している。後期は寛政期(1789~1801)以降である。清長が鳥居家の4代目を継いだのは天明7年ごろと推定されるが,このころから鳥居家当主としての絵番付や絵看板の仕事が増大した。寛政期に入ると一枚絵,版本の作画は漸減していき,歌麿に美人画の第一人者の地位を譲りわたすこととなった。<参考文献>平野千恵子『鳥居清長の生涯と芸術』,同『鳥居清長画集』,岡畏三郎「清長」(『浮世絵大系』4巻),山口桂三郎他「清長」(『浮世絵八華』2巻)

(浅野秀剛)

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改訂新版 世界大百科事典 「鳥居清長」の意味・わかりやすい解説

鳥居清長 (とりいきよなが)
生没年:1752-1815(宝暦2-文化12)

江戸中・後期の浮世絵師。江戸本材木町一丁目の本屋白子屋(しらこや)市兵衛の子。関氏(一説に関口氏),通称市兵衛あるいは新助。鳥居家3代目初世清満の門人で,清満の没後1787年(天明7)ころ,師家の4代目を継ぐ。はじめ清満風の役者絵や鈴木春信風の美人画を描くが,礒田湖竜斎の感化を経て,天明年間(1781-89)にいたり独自の様式を確立した。長身の美人を写実的な景観の中に群像としてとらえるその明るく健やかな風俗表現は,天明期の闊達な世相と粋好みの美意識をよく反映している。大判錦絵を横につづけて画面を拡大した二枚続,三枚続の続き物を得意とした。役者絵では浄瑠璃の太夫たちも登場させた〈出語図(でがたりず)〉という新形式を生み出し,現実感に富む舞台描写を試みている。鳥居家の当主を襲名して以後は,家業である芝居の看板絵や番付絵などに専念し,錦絵への作画から遠ざかった。代表作に《当世遊里美人合》《風俗東之錦》《美南見(みなみ)十二候》の三大揃物があり,肉筆画にも《柳下納涼図》(ボストン美術館)などの名作が知られる。門人に清峰(きよみね)(2世清満)や子の清政がいるほか,勝川春潮,窪俊満ら他派の画家にも濃厚な影響を及ぼした。
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百科事典マイペディア 「鳥居清長」の意味・わかりやすい解説

鳥居清長【とりいきよなが】

江戸後期の浮世絵師。日本橋の書肆(しょし)白子屋の子として生まれ,名は新助,のち市兵衛。鳥居清満の養子となって鳥居派4代を継承。初めは鳥居派風の役者絵を描いたが,のち美人画を多く制作し独自の様式を完成,二枚続き,三枚続きの版形式の中に美人群像を描き,天明画壇を風靡(ふうび)した。
→関連項目喜多川歌麿窪俊満春画

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鳥居清長」の意味・わかりやすい解説

鳥居清長
とりいきよなが

[生]宝暦2(1752).江戸
[没]文化12(1815).5.21. 江戸
江戸時代後期の浮世絵師。俗称は市兵衛。書店の白子屋市兵衛の子。鳥居清満の門人となり師没後に鳥居家4代目を襲名。安永期 (1772~80) 頃は主として鳥居風の役者絵 (→芝居絵 ) を描く。その後美人画に転じて清長風と呼ばれる長身で健康的な美人を描き,群像表現,風景との組合せや続き物によって,天明期 (81~88) の浮世絵界で活躍。美人画のほか役者絵,肉筆画,絵本,黄表紙なども描き続け,特に役者絵では出語りの人も描き込んだ「出語り図」という新様式を創案。主要作品『雛形若菜の初模様』 (82) ,『当世遊里美人合』 (81~83) ,『美南見十二候』 (84) ,『飛鳥山の花見』,出語り図『三代沢村宗十郎の平清盛,四代芳沢あやめの仏御前,三代市川八百蔵の悪七兵衛景清』 (80頃) ,肉筆画『品海遊宴』 (83~84頃) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鳥居清長」の解説

鳥居清長
とりいきよなが

1752~1815.5.21

江戸中期の浮世絵師。本姓関口,俗称市兵衛。鳥居家3代清満の門人で,明和末年から清満や鈴木春信の画風にならった錦絵を制作。安永期には礒田(いそだ)湖竜斎の影響をうけたが,天明期には,すらりとした長身に健康的な色香をただよわせた独自の美人画風を確立。大判錦絵を横につなげた2枚続・3枚続の画面に江戸の風景を写実的に描き,多数の美人を配した錦絵作品を得意とした。また役者絵に浄瑠璃の太夫を描いた出語り図(でがたりず)を考案した。師清満の没後に鳥居家を継いでからは家業の芝居看板絵・番付絵に専念した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鳥居清長」の解説

鳥居清長 とりい-きよなが

1752-1815 江戸時代中期-後期の浮世絵師。
宝暦2年生まれ。江戸の本屋白子屋市兵衛の子。鳥居家3代の初代清満(きよみつ)にまなび,天明7年ごろ鳥居家4代をつぐ。大判の続き絵を考案し,役者絵のほか,長身で健康的な美人を群像形式でえがく美人画で知られる。文化12年5月21日死去。64歳。本姓は関(一説に関口)。通称は新助,市兵衛。作品に「当世遊里美人合」「柳下納涼図」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「鳥居清長」の解説

鳥居清長
とりいきよなが

1752〜1815
江戸後期の浮世絵師
相模(神奈川県)浦賀の人(一説に江戸の人)。江戸に出て書店を営み,鳥居清満の門に学び美人画に長じた。師清満の死後,養子となって鳥居家をついだ。卓越した技量をもち,背景との調和にすぐれた美人画を描き盛名をはせた。代表作に『美南見 (みなみ) 十二候』『風俗東之錦 (ひがしのにしき) 』など。

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世界大百科事典(旧版)内の鳥居清長の言及

【浮世絵】より

…そして,人形のように無表情な細腰の優しい男女を主人公として,古典和歌の詩意を時様の風俗の内にやつし,あるいは伝統的主題を平俗に見立てるなどしながら,浪漫的情調のこまやかな風俗表現に一風を開いている。春信画の夢幻的な虚構性は,礒(磯)田湖竜斎がしだいに払拭し,天明年間の鳥居清長にいたって,浮世絵美人は現実的な背景の中に解放されることになる。清長の美人画像は八頭身の理想的なプロポーションをとり,大判二枚続,三枚続の大画面に展開され,開放的な野外風景の中で,群像として知的に構成される。…

※「鳥居清長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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