魚目村・魚目中(読み)うおのめむら・うおのめじゆう

日本歴史地名大系 「魚目村・魚目中」の解説

魚目村・魚目中
うおのめむら・うおのめじゆう

現新魚目町域の南端、有川ありかわ(現有川町)南西に位置する。中世より魚目などとみえ近世は初め福江藩領の魚目掛に属した。堀切ほりきり村・うら村・くわ村の三ヵ村からなるが、北方榎津えのきづ村・似頸にたくび村・小串こぐし村・藤首ふじくび村を加えて魚目中と総称する場合がある。文保二年(一三一八)九月一七日の青方高継譲状案(青方文書)に「魚目」とみえ、青方高継は青方あおかた(現上五島町)のうちの地頭職を養子の亀法師丸に譲っているが、その北境は魚目の大道であった。元亨二年(一三二二)には高継が「うおのめ」越えの大道を北境とする所領の一部(鮎河浦、現上五島町)姻族の堺深(鮎河氏)に銭五〇貫文で売渡しているが(同年七月一〇日「青方高継・高直連署沽却状案」同文書)、青方氏は永享五年(一四三三)沽却状案文を写した際、有川氏・浦氏ら近在諸氏の署名をもって証文としている(同年閏七月四日「有川学等連署添状」同文書)。嘉靖四一年(一五六二)の「籌海図編」所載日本国図に「衣屋奴密」とみえ、万暦五年(一五七七)の「図書編」の日本国序(文淵閣四庫全書子部)に「五島至山口必由平戸経過其奥為乃路為倭斉家為衣屋奴密(中略)為話哈」とみえる。地内の榎津に魚目城跡がある。

江戸時代は初め福江藩領で、慶長国絵図に「魚ノ目」とみえ、高一一二石余。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳に魚ノ目湊とみえ、福江ふくえ湊から一九里の船路であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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