高野聖(読み)こうやひじり

精選版 日本国語大辞典 「高野聖」の意味・読み・例文・類語

こうや‐ひじり カウヤ‥【高野聖】

[1] 〘名〙
高野山に住する僧の意。はじめは高野山に隠遁して念仏を行なった聖をさしたが、のち諸国をめぐって勧進して歩いた宿借(やどかり)聖が主体となり、近世になると、乞食僧(こじきそう)、また、衣類などの押売り行商をする売僧(まいす)をもいう。高野行者。高野坊主。高野坊。
※米沢本沙石集(1283)一「高野聖(ヒシリ)と聞て、なつかしく思はれけるにや」
② (背の紋様を、高野僧が笈を負った姿に見立てていう) 昆虫「たがめ(田鼈)」の異名。《季・夏》 〔和漢三才図会(1712)〕
③ 昆虫「あかとんぼ(赤蜻蛉)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕
④ 昆虫「はぐろとんぼ(羽黒蜻蛉)」の異名。〔物類称呼(1775)〕
[2] 小説泉鏡花作。明治三三年(一九〇〇発表。男を鳥獣に変えてしまう魔性美女を描き、幻想的浪漫的世界を開いた。

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百科事典マイペディア 「高野聖」の意味・わかりやすい解説

高野聖【こうやひじり】

平安末期からふえた(ひじり)の中で高野山本拠とする集団。きびしい念仏修行をする一方,妻帯したり生産に従うなど半僧半俗の生活を営み,とくに鎌倉時代以後は諸国を回国して弘法大師信仰と高野山への納骨をすすめ,霊験譚をひろめた。また橋や道路を造り,造塔造仏の勧進も勤め,各地の別所と呼ばれる所に住んだ。高野山中では小田原聖,萱堂(かやどう)聖,千手院聖(時宗(じしゅう)聖)などが南北朝時代に時宗化した。中世末から高野聖の勧進活動も行きづまり,なかには商僧化するものもいて,(おい)に呉服を入れて売り歩く呉服聖,行商聖,行乞を業とする聖など俗悪化が進み,本来の姿を失ったまま江戸末期まで続いた。墨染の衣を裾短(すそみじか)に着て檜笠をかぶり笈を背負う特徴的な姿は,各地の〈参詣曼荼羅〉などに頻出する。
→関連項目石童丸行商

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デジタル大辞泉 「高野聖」の意味・読み・例文・類語

こうや‐ひじり〔カウヤ‐〕【高野聖】

地方伝道のために、高野山から派遣された回国の僧。学侶方がくりょがた行人方ぎょうにんがたに対して、聖方ひじりかたのこと。のちには、高野山の下級の僧。また、その服装をした乞食僧こつじきそう
タガメの別名。 夏》
[補説]書名別項。→高野聖

こうやひじり【高野聖】[書名]

泉鏡花の小説。明治33年(1900)発表。飛騨の山中を舞台に、高野の旅僧と魔性の美女との出会いを、夢幻的に描く。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高野聖」の解説

高野聖
こうやひじり

中世,高野山を本拠として全国的に勧進遊行した僧
平安末期以来,浄土信仰に基いて出家遁世 (しゆつけとんせい) した者を聖と呼んだが,高野山を修行の場とし,弘法大師信仰を広めた者をさす。室町時代になると布教のかたわら行商を営む者も現れた。

高野聖
こうやひじり

明治後期,泉鏡花の中編小説
1900年『新小説』に発表。高野山の旅僧が,飛驒山中で迷い,魔性の美女の誘惑をかろうじてのがれたという筋の浪漫文学の傑作

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高野聖」の意味・わかりやすい解説

高野聖
こうやひじり

鎌倉時代以後,全国を勧進遊行した高野山の僧で,のちには勧進だけでなく,行商などを行う者もあった。また,彼らの持運んだ説話作品も多く,唱導文芸として多くの影響を与えている。

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世界大百科事典 第2版 「高野聖」の意味・わかりやすい解説

こうやひじり【高野聖】

高野山を中心にして,全国に活躍した勧進聖。聖は古代宗教家の総名であったが,奈良時代から民間僧を指すとともに,半僧半俗の私度僧を指すようになった。その活動は主として勧進と唱導(説経)であったから,庶民的寺院や造営中の寺院にあつまりやすかった。高野山では平安中期から勧進聖があつまったが,まだ高野聖集団を形成するにいたらなかった。彼らが大きな勢力を示すのは白河上皇の高野山登拝のあった1088年(寛治2)のころからで,これが初期高野聖である。

こうやひじり【高野聖】

泉鏡花の中編小説。1900年(明治33)2月《新小説》に発表。鏡花の出生地金沢は背後に白山の山脈がひかえ,さまざまな伝説の語り伝えられる地であった。《高野聖》もそのような伝説類と縁が深い。この作品は絶妙な語りの特色をもつ。語り手は旅僧宗朝,雪の夜の敦賀(つるが)の宿で旅僧はせがまれるままに,若き日に飛驒から信州へ越える山中で出会った,怪奇な出来事を語ってきかせる。富山の薬売を追って山中の一つ家にたどりついた旅僧は,そこで白痴の男と住む美女とめぐりあう。

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世界大百科事典内の高野聖の言及

【有王】より

…鹿ヶ谷(ししがたに)事件で俊寛が流されてのち,鬼界ヶ島を訪ねてその最期をみとり,遺骨を高野山奥の院に納めて法師になった。諸国七道を修行して主の亡魂を弔ったとあるが,柳田国男は,有王の名が,特定の一人物の固有名詞というより,一群の高野聖(こうやひじり)たちの通り名だったと考えている。〈有〉はミアレ(神の誕生)のアレに同じで,有王とは神子を意味し,亡魂の消息をかたる語り手の通り名としてふさわしい。…

【石童丸】より

…西光寺の所在が妻科村石堂(現,長野市北石堂町)西光寺となっているのは,石堂に拠る聖と幼い主人公の因縁がしのばれる一つの証しである。高野山の萱堂聖や,善光寺周辺の石堂の聖の間で語られた話を統合したものに時宗化した高野聖の存在が考えられるが,彼らは高野山と善光寺を往還しながら説経《苅萱》の成立に深く関与したことはまちがいない。父が苅萱であることを生涯知らずに終わり,母や姉の死を見とどけて荼毘(だび)にするなど,《苅萱》の主題である家族の解体と死に最後まで立ち会ったのが石童丸であった。…

【苅萱】より

…中世的な宗教性が濃く,俗生活に背を向けた苅萱が,家族の執拗な追跡を逃れて高野山にこもり,かたくなに道心を貫いた一生を描いている。この話は最初,高野山の蓮華谷や往生院谷にあった萱堂(かやんどう)に住まう高野聖(ひじり)の間で醸成されたもので,のちに旅を生活の場とする説経師の手に渡り,今日に伝わる形に成長した。主人公苅萱とその子石童丸の別れ,妻や姉娘千代鶴の死など,家族の崩壊と離散を語る内容は,ひとしお哀切の思いが強い。…

【三人法師】より

…本物語は,対比と連接のたくみな構成で出色。なお,親子の恩愛を克服する高野聖は,《吉野拾遺》,説経《苅萱(かるかや)》にも登場する。恩愛と道心の葛藤という主題は,高野聖の関係する文芸に顕著で,その教化活動が育てた作品であったとみられる。…

【俊寛】より

…有王は俊寛の遺骨を高野山に納めて出家し,諸国七道を修行して主の後世を弔ったという。柳田国男は伝承者としての有王の役割に注目して,有王の名が俊寛の亡魂の消息を語る高野聖たちの通り名だったとし,九州地方を中心に近畿・北陸にまで伝えられる俊寛・有王の伝説にしても,有王を称する複数の伝承者の足跡と無関係ではないとしている。富倉徳次郎は康頼を中心に語られる鬼界ヶ島説話の前半部に注目して,この説話の出所を,康頼が帰洛後住んだ東山の双林寺周辺に求めている。…

【聖】より

…山林に入って断穀不食の苦修練行を積んだり,本寺から離れて別所や村里に隠遁したり,あるいは廻国遊行(ゆぎよう)して念仏,造寺,造仏,写経,鋳鐘,架橋などはば広い勧進(かんじん)活動を行い,穀断(こくだち)聖,十穀聖,別所聖,隠遁聖,廻国聖,勧進聖などその特徴から多様な呼称が生まれた。唱導文芸や芸能にも活躍し,唱導聖などとよばれ,また聖が多く集まる拠点にちなんで善光寺聖(善光寺),四天王寺聖,高野聖などと称された。高野聖は中世にあっては聖の代表のようにみられた。…

※「高野聖」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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