高野房太郎(読み)タカノフサタロウ

デジタル大辞泉 「高野房太郎」の意味・読み・例文・類語

たかの‐ふさたろう〔‐ふさタラウ〕【高野房太郎】

[1869~1904]労働運動家。長崎の生まれ。岩三郎の兄。渡米して職工義友会を組織。ゴンパーズの知己を得、AFL(米国労働総同盟)のオルグとして明治29年(1896)帰国。明治30年(1897)、片山潜らと労働組合期成会を結成。また、消費組合である共栄社を設立。

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精選版 日本国語大辞典 「高野房太郎」の意味・読み・例文・類語

たかの‐ふさたろう【高野房太郎】

労働運動家。長崎県出身。岩三郎の兄。明治一九年(一八八六)渡米して苦学。帰国後職工義勇会を設立し、労働運動草分けの一人として活躍。同三二年には消費組合共栄社を設立したが、のち中国の青島で客死。明治元~三七年(一八六八‐一九〇四

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朝日日本歴史人物事典 「高野房太郎」の解説

高野房太郎

没年:明治37.3.12(1904)
生年:明治1.11.24(1869.1.6)
明治期,日本労働運動の創始者のひとり。高野岩三郎の兄。現在の長崎市に生まれる。明治10(1877)年一家と共に上京,父の死後横浜の伯父のもとで働きながら夜学に学び,19年渡米,以後一時帰国をはさんでサンフランシスコを中心に労働しながら苦学し,1892年にサンフランシスコ商業学校を卒業した。この間,労働問題の研究を深め,1891年には城常太郎らと職工義友会を組織した。1894年にニューヨークに移り,AFL(アメリカ労働総同盟)本部でゴンパースと会って知遇を得,AFLのオルガナイザーに任命される。その後アメリカ軍艦の乗組員として乗艦の極東配備に従い,明治29(1896)年帰国。横浜で英字紙の記者をしたのち,上京して労働者の組織に着手,30年春に城らと職工義友会を再組織した。このとき配布された,わが国労働運動史上最初の宣伝文「職工諸君に寄す」は高野の執筆とされる。同年日本で最初の労働問題演説会を開催,労働組合期成会を結成して幹事となり,鉄工組合結成,『労働世界』の創刊などにも力をつくした。しかし高野の労働組合主義は,期成会の内部で社会主義への傾斜を深めつつあった片山潜らと対立し,高野は一時期成会や鉄工組合の幹事を辞して消費組合運動を推進したが失敗に終る。33年の春に突然運動から手を引き,中国に渡ったが,青島のドイツ病院で死去。<参考文献>ハイマン・ガブリン『明治労働運動の一齣』,大島清『高野岩三郎伝』,隅谷三喜男『日本賃労働の史的研究』,二村一夫「職工義友会と加州日本人靴工組合」(『労働運動史研究』62号)

(有馬学)

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改訂新版 世界大百科事典 「高野房太郎」の意味・わかりやすい解説

高野房太郎 (たかのふさたろう)
生没年:1868-1904(明治1-37)

日本の労働組合運動の創始者。長崎に生まれ,東京,横浜で少年時代を送った。1886年アメリカに渡り,太平洋岸の各地で働きながら英語,経済学などを学んだ。この間,労働運動に関心をいだき,91年夏にはサンフランシスコで城常太郎(靴工),沢田半之助(洋服仕立工)らと職工義友会(〈労働組合期成会〉の項参照)を組織した。高野はジョージ・ガントンの《富と進歩》に感銘うけ,〈高賃金は国内市場を拡大し国を富ます。労働組合運動は社会進歩の原動力である〉との説の信奉者となった。S.ゴンパーズの知遇を得,96年に帰国したときにはアメリカ労働総同盟(AFL)の日本オルグに任命されていた。97年7月片山潜らと労働組合期成会を結成し,同年12月には鉄工組合を創立してその常任幹事となった。また消費組合運動にも力を入れ,共働店を経営した。しかしいずれも成功せず,1900年には運動から手をひいて中国に渡り,青島で客死した。
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百科事典マイペディア 「高野房太郎」の意味・わかりやすい解説

高野房太郎【たかのふさたろう】

労働運動の先駆者。長崎出身。横浜商業卒。1886年渡米し在米中城泉太郎・沢田半之助らと職工義友会を組織。帰国後,沢田・片山潜らと労働組合期成会を結成。鉄工組合の幹事としても活躍したが,1900年中国に渡り青島(チンタオ)で客死。
→関連項目高野岩三郎鉄工組合普通選挙期成同盟会

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高野房太郎」の意味・わかりやすい解説

高野房太郎
たかのふさたろう
(1869―1904)

日本労働組合運動の創始者。統計学者高野岩三郎の兄。明治2年2月24日、長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡長崎区銀屋町(長崎市)に生まれる。1886年(明治19)に渡米し、アメリカ西部で働きつつ学んだ。91年に沢田半之助らと職工義友会を組織。やがてAFL(アメリカ労働総同盟)会長サミュエル・ゴンパーズの知己を得、AFLの日本オルグに任命され、日清(にっしん)戦争終結後の96年帰国。翌97年に沢田と「職工諸君に寄す」という檄(げき)を発して組合結成を呼びかけ、7月に労働組合期成会を結成して日本労働組合運動の創始者となったが、その思想は穏健な労働組合主義であり社会主義には反対であった。1900年(明治33)に入って労働組合運動が衰退に向かうと運動から手を引き中国に渡り、明治37年3月12日、青島(チンタオ)のドイツ病院で死去した。

[岡本 宏]

『ハイマン・カブリン編著『明治労働運動史の一齣』(1959・有斐閣)』『大島清著『高野岩三郎伝』(1968・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高野房太郎」の意味・わかりやすい解説

高野房太郎
たかのふさたろう

[生]明治1(1868).長崎
[没]1904.3.12. 青島
社会運動家。横浜商業学校卒業後 1886年渡米,S.ゴンパースと交わり,社会運動に関心をもった。 96年帰国,職工義友会に参加,97年労働組合期成会,同年 12月日本最初の労働組合である鉄工組合の結成に協力。 99年労働者の消費組合「共営社」を東京に設立。著書に在米中の『北米合衆国の労役社会の有様を叙す』 (1890) ,『日本における労働問題』のほか,日本最初の労働運動の文書といわれる『職工諸君に寄す』 (97) などがある。高野岩三郎の兄。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高野房太郎」の解説

高野房太郎
たかのふさたろう

1868.11.24~1904.3.12

明治期の労働組合運動の先駆者。長崎県出身。岩三郎の兄。1886年(明治19)渡米。各地で多種の労働に従事し,労働問題に関心をもつ。91年には城常太郎(じょうつねたろう)らと職工義友会を組織,アメリカ総同盟会長と接触して日本オルグに任命された。帰国翌年の97年片山潜らと労働組合期成会を創立,日本初の近代的労働組合鉄工組合を組織。消費組合運動結成にも尽力。中国青島(チンタオ)で客死した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高野房太郎」の解説

高野房太郎
たかのふさたろう

1868〜1904
明治時代の社会運動家。日本労働運動の先駆者
長崎県の生まれ。1886年渡米,種々の労働に従い,この間,AFL(アメリカ労働総同盟)会長のゴンパーズの指導をうけサンフランシスコで職工義友会を組織。AFL日本支部をつくる目的で '96年帰国。翌年片山潜らと職工義友会・労働組合期成会を設立して労働組合の組織化に努力した。また'99年共営社(消費組合)をつくった。のち中国に渡り青島 (チンタオ) で客死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高野房太郎」の解説

高野房太郎 たかの-ふさたろう

1869*-1904 明治時代の労働運動家。
明治元年11月24日生まれ。19年渡米して苦学し,アメリカ労働総同盟の日本オルグに任命される。帰国後片山潜らと労働組合期成会を結成して日本最初の近代的労働組合となる鉄工組合を組織。また消費組合運動にも尽力した。明治37年3月12日死去。37歳。肥前長崎出身。

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