高浜村(読み)たかはまむら

日本歴史地名大系 「高浜村」の解説

高浜村
たかはまむら

[現在地名]野母崎町高浜・南越なんごし以下宿いがやど黒浜くろはま高島たかしま端島はしま

脇御崎わきみさき村の北にあり、北西部は海に臨む。海岸部に弁天べんてん山・古里ふるさと浦・野々串ののくしなどがあり、以下宿から黒浜にかけての海辺に夫婦めおと岩・綱掛つなかけ岩などがみられる。中世は高浜などとみえ、南部の殿隠とのかくし山は平家落人の三浦平六兵衛(平能仲、深堀氏の祖という)の一族が隠れた地と伝える。天正一五年(一五八七)豊臣秀吉による九州仕置では深堀純賢が当地などを安堵されるが、同一六年海賊行為を責められて没収、うち「野母村・高浜村」など三ヵ村一千石は豊前小倉こくら(現福岡県北九州市小倉北区)城主毛利吉成の支配下に入った(同年六月一五日「豊臣秀吉朱印状写」鍋島直茂公譜考など)。江戸時代は幕府領。慶長国絵図に「野母ノ内 高浜」とある。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺によれば、「高浜」生れの七蔵女房はキリシタンで、寛永四年に長崎鍛冶屋かじや町に行き、同六年頃に改宗したという。正保二年(一六四五)「高浜村」と蚊焼かやき(現三和町)の境目が定められ、投揚なげあいし大道だいどう山などが目あてとされた(「御書其外書抜」菩提寺文書)正保国絵図に高浜村とみえ、幕府領長崎代官支配で高四四七石余。元禄国絵図でも同様。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]高浜市高浜町

西三河平野の西南隅に位置し、三河湾に臨む海浜の村。北は吉浜よしはま村。高崖の海岸の多いところから高浜と名付けられたという。弥生時代の芳川よしかわ貝塚、古墳時代の王江おうえ遺跡がある。志貴しき庄に属する。応永一六年(一四〇九)の「熊野道者日記」(大乗院記録)に高浜の郷名を記す。藩政期の高浜村は、元和二年(一六一六)刈谷藩領、元禄一六年(一七〇三)幕府領、正徳元年(一七一一)刈谷藩領、寛政四年(一七九二)幕府領、文化一一年(一八一四)刈谷藩領として明治に至る。「三河国二葉松」に「高浜 磯」と記し、今も北浦きたうら西海戸にしかいど西浦にしうら・王江・横浜よこばまの地名が残る。春日かすが北山きたやまは海に臨む崖であった。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]高浜町塩土しおど事代ことしろ三明さんめい宮崎みやざき若宮わかみや南団地みなみだんち

北は高浜湾に面し、南は砕導さいち山を境に子生こび村。海岸線の白砂青松は、東は和田わだ村、西は三松みつまつ村まで続く。村内を東西に丹後街道が通る。

古代の木津きづ(和名抄)の地とされ、中世には木津庄。「若狭国税所今富名領主代々次第」は明徳四年(一三九三)五月一八日のこととして「将軍家太政大臣丹後九世戸へ御参詣の御序に当国へ御成、木津庄高浜の矢穴御一見、其後当浜へ御成ありて玉花院に御座」、また応永二年(一三九五)九月一九日のこととして「九世戸の御次に、当国高浜矢穴当浜御成ありて玉華院に入御、数々御遊同前」と記し、将軍足利義満・義持が丹後の久世戸くせど文殊(智恩寺、現京都府宮津市)に参詣の序に当地の名勝矢穴やな(八穴)を訪れていることが知られる。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]島本町高浜・水無瀬みなせ二丁目・江川えがわ二丁目

桜井さくらい村の南東にあり、村の東側を淀川が流れる。北部に条里制地割の遺構が認められる。南部は淀川を用いた水上交通の舟泊であったと伝え、「更級日記」に「秋ごろ和泉に下るに、(中略)たかはまといふ所にとゞまりたる夜、いと暗きに、夜いたうふけて、舟のかぢのをときこゆ。とふなれば、遊女の来たるなりけり」とある「たかはま」は当地のこととする説がある。南北朝時代当地に水無瀬御影堂領があり、延文二年(一三五七)一〇月二日の足利義詮御判御教書写(水無瀬神宮文書)に「摂津国水無瀬庄并高浜府生田安養寺等」とみえ、これらに対する芥河信貞の押妨を赤松光範に停止させている。

文禄三年(一五九四)九月、検地が行われたが、同月付芥河郡高浜村御検地帳写(西田家文書)によると石高四〇五石余で、うち主無しが九町五反余の七六石余を占めている。また荒地が多く永荒一二石余・荒六七石余・毛荒一石余・付荒二石余・当荒二斗余となっている。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]天草町高浜

北は小田床おだどこ村、南は大江おおえ村に接する大村。内陸部より西流して天草灘に注ぐ大河内おおがわち川と高浜川が合流する地に位置する。かつて夫の鉄幹とともに当地を訪れた与謝野晶子が「天草の西高浜のしろき磯 江蘇省より秋風ぞ吹く」と歌ったように、広々とした東シナ海に面して町並が広がる。

貞永二年(一二三三)二月一六日付の天草種有譲状案(志岐文書)に「しんひらきたかハま」とみえ、鎌倉時代の新開地であったことが知られる。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳に高九六四石九斗余とある。万治二年(一六五九)石高半減により五六〇石二斗余となった(天草風土考)。「国志草稿」に竈数一〇五・男女数九五八とあり、文政(一八一八―三〇)頃には高六三一石余(うち新田畑六五石一斗余)、家数六三一・人数三千六二九に膨張した。氏神は八幡宮(島鏡)。大江組に属した。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]石岡市高浜

恋瀬こいせ川・山王さんのう川に挟まれた霞ヶ浦入江の低湿地と石岡台地の南端からなり、東は田中たなか村。高浜は「常陸国風土記」に次のように記される。

<資料は省略されています>

弘安大田文には南郡として「高浜田四丁二段」とある。江戸初期に府中藩領となり、のち旗本領となる。幕末は彦坂・土屋・松平・小野各氏が支配したが(各村旧高簿)、明治初年に志筑藩領となる(千代田村史)

高浜村
たかはまむら

[現在地名]高岡町高浜

飯田いいだ村・内山うちやま村の南にあり、北境を赤江あかえ(大淀川)が流れる。北から入った薩摩街道の高浜筋が大丸だいまる渡で赤江川を渡り、村内を南下し、東隣の小山田おやまだ村へ向かう。小山田村の内に飛地が四ヵ所あった(日向地誌)

戦国期の伊東氏の神社領支配の内容を示す弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によれば、「たかはま」の粟野あわの大明神領として、高浜の内五反・屋敷三ヵ所など合せて三町・屋敷三ヵ所が記されている。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳には宮崎郡のうちに高浜六町がみえる。近世初期は穆佐むかさ郷に属していたが、慶長五年(一六〇〇)高岡が外城として立てられると、高岡郷に属した(高岡名勝志)

高浜村
たかはまむら

[現在地名]宮古市高浜・白浜しらはま

宮古湾の奥、磯鶏そけい村の南に位置し、南東は海に臨む。ほかに飛地として対岸重茂おもえ半島の現在の白浜地区のうち太田浜おおたばまが含まれる。阿部家伝(豊間根文書)に「備前の国より牢人して、大釜久三郎という者姓は橘也、舟に乗りて高浜といふ所に来り住居す、佐々木是を憎みて追払う也」とあり、「参考諸家系図」によれば高浜弥右衛門光継は本姓は佐々木で、盛岡藩初代藩主南部信直から知行地として当地に三〇〇石を受けるが、のちに罪に問われて没収されたとある。また慶長元年(一五九六)九月一五日の南部信直知行宛行状(宝翰類聚)によれば磯鶏などとともに船越助五郎知行地の一部になっている。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二四石余、七ヵ年平均の免一ツ三分八厘二毛。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]長洲町高浜、荒尾あらお市高浜

東境を菜切なきり川が南流し、西は梅田うめだ村、北は牛水うしのみず村・菰屋こもや(現荒尾市)など、南は平原ひらばる村と接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田六一町四反余・畠居屋敷三〇町五反八畝余、分米八九七石七斗余。「藤公遺業記」によると、同一二年に加藤清正は、古塘・塩屋しおや塘とともに塘筋三一九間、田畝数六〇町ほどの菜切塘新地の干拓築造をなしたという。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]美津島町けち 高浜・西高浜

知の東海岸にある鶏知けち村枝郷。元禄一三年(一七〇〇)対馬国郡絵図に高浜村とあるが、寛文二年(一六六二)の検地帳および元禄一六年の対州郷村帳では知村のうちとして扱われる。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]神栖町高浜

常陸利根川左岸にあり、東は石神いしがみ村。弘安大田文に「同宿内高浜七町六段六十歩」とあり、鹿島郡南条下宿に属していた。応安(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)には「たかはまの津石神知行分」とみえ、石神氏が津を統轄した。天正一九年(一五九一)東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「五百石五斗七升 たかはま・石かミ・柴崎」とある。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]出雲市日下町くさかちよう矢尾町やびちよう里方町さとがたちよう

高浜川に沿う。慶長二〇年(一六一五)の高浜村御検地帳では田方一一九町三反余・分米一千七二〇石余、畑方一四町七反余・分米一一三石余、屋敷二町七反余、家数七五(うち役家六一)とある。正保国絵図に村名がみえる。明暦元年(一六五五)里方村と山方やまがた村に分村し、さらに延宝七年(一六七九)山方村日下村と矢尾村に分れたという。

高浜村
たかはまむら

[現在地名]荒尾市高浜、玉名たまな長洲ながす町高浜

明治二二年(一八八九)水野みずの村などと合併し玉名郡清里きよざと村となり、昭和三〇年(一九五五)七月二〇日、清里村大字高浜の南部地域は長洲町に編入(玉名郡長洲町の→高浜村

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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