高津宮(読み)たかつのみや

精選版 日本国語大辞典 「高津宮」の意味・読み・例文・類語

たかつ‐の‐みや【高津宮】

[一] 仁徳天皇の皇居。大阪市中央区法円坂一丁目の難波宮跡にあったものと推定されている。難波高津宮。
[二] 大阪市中央区高津(こうづ)にある高津宮(こうづのみや)のこと。仁徳天皇ほか五神をまつる。

こうづ‐の‐みや カウづ‥【高津宮】

大阪市中央区高津にある神社。旧府社。祭神は仁徳天皇ほか五柱。貞観八年(八六六清和天皇の詔により橘良基が創建。こうづぐう。高津さん。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「高津宮」の意味・読み・例文・類語

こうづ‐の‐みや〔カウづ‐〕【高津宮】

大阪市中央区にある神社。主祭神は仁徳天皇。他に仲哀天皇などを配祀

たかつ‐の‐みや【高津宮】

仁徳天皇の皇居。大阪市中央区法円坂の難波宮跡にあったといわれる。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「高津宮」の解説

高津宮
たかつのみや

古事記」「日本書紀」に、仁徳天皇が難波に造営したと伝える宮。「古事記」仁徳天皇段に「大雀命、難波の高津宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とあり、「日本書紀」仁徳天皇元年正月三日条に「大鷦鷯尊、即天皇位す。(中略)難波に都つくる。是を高津宮と謂す」とある。その所在地については江戸時代以来多くの説が出されている。明治以降に限っても、主には次のような諸説が提出されている。第一に「延喜式」神名帳の「宮中神卅六座」のなかにみえる「座摩イカスリノ巫祭神五座」と「生嶋イクシマノ巫祭神二座」はそれぞれ同じく神名帳にみえる西成にしなり郡の「坐摩神社」と東生ひがしなり郡の「難波坐生国咲国魂神社二座」にあたり、もと高津宮内に祀られていたとし、その後身を坐摩ざま神社(現東区)生国魂いくくにたま神社(現天王寺区)とする。

高津宮
こうづぐう

[現在地名]南区高津町一番丁

祭神は仁徳天皇を本座に、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后を左座に、葦姫皇后・履中天皇を右座に祀る。旧府社。社伝によれば、清和天皇が貞観八年(八六六)正月一二日、橘良基に詔して仁徳天皇の遺跡を訪ね、社地を選んで社殿を創祀し、河内国古市郡より神田五〇町を寄進させたという。康保三年(九六六)村上天皇は社殿を造替、天治元年(一一二四)には社地を石山いしやま(現東区)より東高津ひがしこうづ(現天王寺区)に遷して社殿を再建、次いで天正一一年(一五八三)比売許曾ひめこそ社の境内である現社地に遷座したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「高津宮」の意味・わかりやすい解説

高津宮
こうづのみや

大阪市中央区高津に鎮座。仁徳(にんとく)天皇を主神とし、左に仲哀(ちゅうあい)天皇・応神(おうじん)天皇・神功(じんぐう)皇后、右に葦姫(あしひめ)皇后・履中(りちゅう)天皇を祀(まつ)る。旧社地は仁徳天皇の皇居高津(たかつ)宮跡で、同地に鎮座の式内社比売許曽(ひめこそ)神社境内にいつしか創建された。964年(康保1)社殿改築より本社が主とされ、比売許曽社が境内社のようになり、1583年(天正11)豊臣(とよとみ)秀吉の大坂城築城にあたり現社地へ遷座。明治の制で府社。例祭7月18日。

[鎌田純一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の高津宮の言及

【難波宮】より

…現在の大阪市中央区法円坂町一帯を中心として所在した7世紀中葉から8世紀末に至る古代宮殿遺跡。上町台地を中心とする古代の難波の地には,古くは応神天皇の大隅(おおすみ)宮,仁徳天皇の高津宮,欽明天皇の祝津(はふりつ)宮などの宮室が置かれたと記紀は伝えている。645年(大化1)6月,飛鳥板蓋(いたぶき)宮における蘇我入鹿暗殺事件を発端としていわゆる大化改新が開始されるが,同年12月,孝徳天皇は都を飛鳥から難波長柄豊碕(ながらとよさき)に移した。…

※「高津宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android