高森村(読み)たかもりむら

日本歴史地名大系 「高森村」の解説

高森村
たかもりむら

[現在地名]宇佐市高森

宇佐村の北西、駅館やつかん川右岸に展開する宇佐台地(宇佐原台地ともいう)上にある。北は金屋かなや村、南西および駅館川を挟んで西方は川部かわべ村。本村のほかに上地うえじ左尾さおなどの集落があり、駅館川沿いには天正期(一五七三―九二)高森城跡がある。当村を中心に金屋村川部村へとつながる宇佐台地は、旧宇佐郡域では弥生時代から古墳時代までの遺跡が最も集中する所で、宇佐平野に君臨した首長の墓とみられ、九州最古の一つに位置づけられる赤塚あかつか古墳などがある。貞応二年(一二二三)五月二日大神太子は向野むくの郷内の「宇那瀬村」にある「字妙見下片山畠」などを酒丸に売渡しているが(「大神太子田畠売券」小山田文書)、この「妙見下」は上地の字妙見田みようけだと関連するか。

高森村
たかもりむら

[現在地名]高森町高森

北は高森町、西は市下いちした(現白水村)、南は大見口おおみぐち(現蘇陽町)と接する。阿蘇外輪山の内側麓に立地する。中世には阿蘇社領南郷内に属し、社家の造営や神事の折に種々の課役を負担している(正平七年二月吉日「阿蘇社上葺等次第」阿蘇家文書など)。天授三年(一三七七)に「四貫文 大(若脱)供米」を納入し(「阿蘇山衆徒料足等納帳」西巌殿寺文書)、応永二九年(一四二二)の寺家への寄進地にも「一所、大般若供米、是ハ南郷市下、二子石、高森、竹崎、村山ヨリノ沙汰」と記され、西巌殿さいがんでん寺に大般若供米を納める在所であった(同年一一月三〇日「阿蘇山衆徒等起請文写」阿蘇家文書)

高森村
たかもりむら

[現在地名]伊勢原市高森・高森一―五丁目・高森台たかもりだい一―三丁目

大住おおすみ郡の東北端の台地上にあり、西境をうた川が流れる。北は愛甲あいこう郡愛甲村・小野おの(現厚木市)、西南は粟窪あわくぼ村、東は石田いしだ村に接する。矢倉沢やぐらさわ往還が通る。応永一九年(一四一二)八月二一日の沙弥道源寄進状写(県史三)に「相模国糟屋庄内高森郷」とあり、大山寺領として寄進されている。天正一四年(一五八六)三月六日の北条家朱印状写(同書)によれば「大山寺領高森郷代官職」が大山寺八大はちだい坊に安堵されている。

高森村
たかもりむら

[現在地名]柳津町四ッ谷よつや

大向おおむこう山とだけの山の鞍部に位置する高原の村で、北は沢中さわなか村。東は海老山えびやま峠を越えて尾岐おまた(現会津高田町)へ至り、西はうるし峠を越えて大成沢おおなりさわ村に通じる。戦国期と推定される年月日未詳の小田名字在所注文写(熊野那智大社文書)に「奥州相津黒河之内寺崎・高森、これも小田にて候」とあり、当地をさすか。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四九石余。

高森村
たかもりむら

[現在地名]武生市高森町

おにヶ岳東麓、大虫おおむし扇状地にある。中世は大虫庄に含まれた。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高二六〇・二石、先高二〇八石余・出分五二石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領、元禄一〇年(一六九七)高森藩領となって陣屋が置かれた。享保五年(一七二〇)福井藩預領、明和元年(一七六四)以降三河国西尾藩領になった。

当村は扇状地中央に位置するため水に乏しく、元禄二年八月の高森村免割ニツキ訴状写(青山家蔵)によると、高二六〇石余のうち約七割の一八〇石余が不作がちの畑地であった。そのうえ支配替りごとに高免となって村は困窮した。同訴状写によると、寛文一二年(一六七二)百姓一〇人が逃散し、その四〇石余の田畑の耕作者もなく、未進高が三度捨免され合計は一九七石余に達した。

高森村
たかもりむら

[現在地名]豊栄市高森

阿賀野川の自然堤防上に立地し、北は森下もりした新田、南は三ッ屋みつや村。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に「高森村新崎村」と併記され、高八八石六斗二升とある。同一〇年の給知方村々高目録(同資料)に高森新崎村とあり、毛付として四五石四升五合、荒として七〇石五斗一升五合と記される。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)には高森村とあり、一石七斗の炉役を一〇軒で負担している。正保国絵図には二〇石余とあり、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数一五・人数一〇七と記される。

高森村
たかもりむら

[現在地名]大和村高森

桜川右岸にあり、東は青木あおき村、南は大国玉おおくにたま村。弘治二年(一五五六)一一月九日、結城政勝高椅たかはし神社(現栃木県小山市)に所領の「高森郷 百文」を寄進している(「結城政勝寄進状」高椅神社文書)。天文―慶長期(一五三二―一六一五)には、結城氏領・宇都宮氏領・佐竹氏領と替わったといわれ、慶長一六年から正保二年(一六四五)は豊岡藩領、慶安二年―天和二年(一六四九―八二)は土浦藩領、天和二年から元禄五年(一六九二)は天領、同七年から一六年は赤松藩領、同一六年以降は天領、宝永元年―享保元年(一七〇四―一六)旗本領となり、元文五年(一七四〇)以降は天領・旗本領となった(大和村史)

高森村
たかもりむら

[現在地名]上越市高森

南新保みなみしんぼ村の南に位置し、中江なかえ用水が流れる。天正一五年(一五八七)と推定される四月二八日の本願寺顕如印判状、文禄元年(一五九二)と推定される一二月一七日の本願寺教如印判状などの本覚坊文書に村名がみえる。文禄頃の頸城郡絵図に「千坂分長尾加賀分北条能登分橋爪新左衛門分高森村 中」とみえ、本納七七石三斗五升・縄高一六五石一斗四合九勺、家八軒・四〇人。正保国絵図によると高一七八石余。

高森村
たかもりむら

[現在地名]富士見町高森

池袋いけのふくろ村の北方にあり、集落内を甲州道(善光寺道)が通じ、東部をなか棒道ぼうみち(→信玄の棒道が通っている。天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)に「高八拾四石七斗 高森郷」とあるのを初見とする。

高森村
たかもりむら

[現在地名]和島村両高りようたか

村岡むらおか村の東、南は村田むらた村。正保国絵図にはみえない。村田村の枝郷。元和二年(一六一六)以後は幕府領出雲崎いずもざき代官所支配に属したと思われる。旧高旧領取調帳では高二八一石四斗余で出雲崎代官所支配。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android