高松炭鉱・高尾炭鉱(読み)たかまつたんこう・たかおたんこう

日本歴史地名大系 「高松炭鉱・高尾炭鉱」の解説

高松炭鉱・高尾炭鉱
たかまつたんこう・たかおたんこう

現在の水巻町吉田よしだ頃末ころすえ高尾たかお地区や北九州市八幡西やはたにし折尾おりお地区・中間市岩瀬いわせ地区などにあった炭鉱。現在は閉山石炭は瀝青炭、炭質は不粘結性、発熱量は六四〇〇―六七〇〇カロリーと中位程度であったが、硫黄分が少なく、主として汽缶燃料として賞揚された。

高松炭鉱は複数の鉱区起源としている。そのうち若松わかまつ(現北九州市若松区)の石炭商熊本重千代の開発にかかわるのが鉱区番号福岡県採登五一一六号(水巻村吉田)および同六三六三号で、明治三一年(一八九八)開坑といわれる。そのほかは同一三七五号(長津村中間など)大倉喜八郎の所有で明治二八年、同七二三一号(洞南村永犬丸など)が加藤謙蔵所有で同三六年、同六〇四号(水巻村吉田など)が長網好勝所有で同四二年からそれぞれ登録されている。これらの鉱区を同四三年から四四年にかけて三好徳松が買収して七二七号に集約し、高松炭鉱とした。三好は遠賀郡出身、貧農の子として生れ、幼少の頃より炭鉱業に入り、のちに炭鉱請負工事に従事、大正初年までには麻生・安川松本・貝島といった筑豊御三家に次ぐ鉱業主となっていた。鉱夫と常に苦楽を共にしていたというが、高松キナコ(「キナコ」とはリンチにより体に黄土が付いた状態をさす)とも称されるような圧制山でもあった。三好は同四五年に旧竪坑の取り明け、新規坑道の開削に着手、大正元年(一九一二)一一月に着炭した。翌二年には斜坑の開削に着手、同七年に三好個人の所有していた鉱区番号九二五号(折尾町)を合併、同八年に三好は個人経営だった炭鉱を三好鉱業株式会社(資本金二〇〇万円、社長三好徳松)に組織変更し、同時に高松炭鉱も同社の所有となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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