高島城(読み)たかしまじよう

日本歴史地名大系 「高島城」の解説

高島城
たかしまじよう

[現在地名]諏訪市高島

高島城下の西、諏訪湖の東の平坦地にある平城。築城前の島崎しまざきの地は諏訪湖の東のやや盛り上がった小島と湿地帯で、茶臼山ちやうすやま城の出丸のようなものがあり、周囲は高島村とよぶ漁村であった。

天正一八年(一五九〇)諏訪氏(頼忠・頼水父子)が関東へ移ったあと、秀吉の部将日根野高吉が諏訪の領主となり、築城を計画、この地に着目した。高島村とその氏神八剣社(現八剣やつるぎ神社)を東方の現在地に移し(元禄三年より小和田こわた村とよぶ)、文禄元年(一五九二)から築城に着手、金子かねこ城の石は舟で運ばせ、有賀あるが村の石船渡いしふなとからは西山巨石を運ばせ、領内の百姓老若男女を使い、寺社大木を伐り出させ工事を急がせ、翌二年ほぼ完成した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本の城がわかる事典 「高島城」の解説

たかしまじょう【高島城】

長野県諏訪市にあった平城(ひらじろ)。同市指定史跡。江戸時代直前に築かれ、諏訪藩の藩庁の置かれた城である。1542年(天文11)、諏訪頼重が武田晴信(武田信玄)の謀略により自害して諏訪惣領家は断絶したが、頼重の従兄弟の頼忠はその後、諏訪大祝として信玄に仕えた。1582年(天正10)、武田氏が滅亡し、続いて本能寺の変で織田信長が死去すると、頼忠は高島城に入って諏訪氏の家督を継いだ。その後、頼忠は徳川家康に敵対したが降伏して諏訪郡の本領を安堵された。この頼忠が入城した城は現在の諏訪市街北方の茶臼山にあった中世以来の諏訪氏の居城の旧高島城で、頼忠はその後、金子城(諏訪市)を築き、その居城とした。その後、頼忠は家康から武蔵国への国替えを命じられ、諏訪には日根野高吉が入封した。高吉が諏訪湖畔に築いた城が、今日城跡として残っている高島城である。高吉は信長、秀吉に仕えて築城技術を学んでおり、それを生かして、3重の天守と8つの櫓(やぐら)を持つ総石垣の連郭式の平城を完成させた。この城は7年間で完成させたため、地元の負担は大きく、過酷な労働に苦しんだことが言い伝えとして残っている。また、同城築城の際、金子城の石材はすべて持ち出されたといわれている。この城は「諏訪の浮城」と呼ばれるとおり諏訪湖に突き出した岬の突端にあったが、江戸時代の諏訪湖の干拓で、現在は湖畔から離れた位置にある。この城を築いた日根野氏は1601年(慶長6)に下野国(栃木県)の壬生藩に転封となったため諏訪頼水が2万7000石で入封し、再び諏訪氏を領主として明治を迎えた。1871年(明治4)の廃藩置県で諏訪地方は高島県となったが、この時、高島城は県庁として利用された。しかし、1875年(明治8)には天守を除く城内の建物がすべて破却処分となり、その翌年には高島公園がつくられて一般に開放され、1900年(明治33)には諏訪護国神社が建てられた。当時の城跡は現在、高島公園および市街地となっている。かつての二の丸、三の丸は市街地となっているが、本丸は高島公園となり、天守、櫓、門、塀が復元されている。本丸(高島公園)の石垣や、北および東側の堀は当時の遺構である。また、かつて、三の丸にあった城門が同公園内(本丸)に移築されているほか、どこにあった城門かは明らかではないが、市内温泉寺浄光寺山門として移築され現存する。JR中央線上諏訪駅から徒歩約10分。◇島崎城とも呼ばれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高島城」の意味・わかりやすい解説

高島城
たかしまじょう

長野県諏訪市,諏訪湖南東岸にある平城。初め戦国時代諏訪氏が下金子に築城,城下町がおかれたが,天正 18 (1590) 年日根野高吉が豊臣秀吉によってこの地に移封されると,これを廃し,翌年現在地に築城,慶長3 (98) 年竣工したといわれる。同6年日根野氏が下野壬生に移され,諏訪頼永が上野総社から復帰して城主となり明治維新に及んだ。石塁と堀の一部が残っていたが,近年再建された。

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