出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
幕末・維新期の実業家,易学家。江戸三十間堀材木商の子として生まれる。のち,横浜太田町に商店を開き外国貿易を企てたが,幕府の禁令にふれ,一時入獄。このとき易書をたしなむ。明治維新後,1870年より新橋~横浜間の鉄道や道路の開設に当たり,また横浜のガス灯の設置や埋立事業にも関係した。この間,71年には3万円を投じて,私塾藍謝堂(のちの高島学校)を開設した。その後,92年北海道炭礦鉄道会社社長に就任,また石狩十勝地方に高島農場を開拓するなど,多くの会社の経営者を兼ねて活動した。他方,かつて研究した易学をまとめて《高島易断》(1894)を著し,呑象と号してその開祖となった。易占を請う者が,多数その門戸を訪れたといわれる。危篤に際し従五位に叙せられた。
易学家としての高島は,日清・日露両戦争の経過に関する予言,伊藤博文暗殺の予言などで盛名を高め,易聖と仰がれた。また,みずからの死を月日にいたるまで予知したと伝えられる。
執筆者:石塚 裕道
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(米山光儀)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
実業家、易断家。建築請負、材木商嘉兵衛の六男として江戸・三十間堀に生まれる。少年のころから商才を示し、材木商を開業、巨利を占めたともいわれる。幕末の開港後、横浜で貿易店を開くが、禁制に触れ投獄され、その間易学に親しんだ。釈放後は横浜に定住し、土木建築請負を中心に各種事業を営むかたわら、洋式教育の高島学校を設立した。編著『高島易断書』は呑象(どんしょう)の号とともに有名である。
[浅野俊光]
『『呑象高島嘉右衛門翁伝』(1914・同書刊行会)』▽『『高島嘉右衛門自叙伝』(1917・同書刊行会)』
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…法的には規制はなく,大道易者も道路交通法の取締りの対象となっているだけである。実業家の高島嘉右衛門(呑象,1831‐1914)は易断の権威であり,その系統は高島易断所を呼称している。人相学【遠藤 元男】。…
※「高島嘉右衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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