高塚村(読み)たかつかむら

日本歴史地名大系 「高塚村」の解説

高塚村
たかつかむら

[現在地名]椎田町高塚

椎田村の北、城井きい川の河口部北岸に位置し、周防灘に面した海浜部および岩丸いわまる川との間の平坦地に立地する。中世の史料には高墓・高墓庄・高塚村などとみえる。「宇佐大鏡」所載の国々散在常見名田のうちに築城ついき大野おおの郷内として「高墓」八八町六反余とみえ、宇佐宮領であったが、仲津なかつ仲北なかきた郷の絹富きぬとみ名と交換されて国衙領となったという。康正元年(一四五五)一一月一九日の高墓庄預所職預ケ状(北野神社引付/北野古記)には京都北野社宮寺領「高墓庄」とみえ、同庄預所職が同寺塔頭の宝成ほうじよう院明憲に預けられている。

高塚村
たかつかむら

[現在地名]金津町高塚

金津宿の北に隣接する農山村。「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」として細呂宜ほそろぎ郷内の一村に「たかつか村」が記される。河口庄田地引付(大乗院文書)の宝徳二年(一四五〇)の「近年安位寺殿御知行分」に「重貞名」として「半分ハタカツカノエヒ殿沙汰、半分ハ細呂宜ノ兵庫殿沙汰」、「光安名」として「半名ハ金津ノ随北寺、半名ハタカツカノエヒ殿」とあり、この「タカツカ」も当地と思われる。

貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、文政三年(一八二〇)再び福井藩領となる。正徳三年(一七一三)の坂井郡高塚村田畑屋敷反別改帳(佐藤家文書)によれば、一反当りの石盛は上田三石二斗・中田三石・下田二石八斗、上畑一石五斗・中畑一石四斗五升・下畑一石二斗九升・屋敷畑一石五斗で、とくに田地は面積に比べて非常に多く見積られ、当村の税率は村高の一割前後であった。

高塚村
たかつかむら

[現在地名]浜松市高塚町

篠原しのはら村の西に位置し、東は増楽ぞうら村、南は小沢渡こざわたり村。東海道が通る。松平忠頼領郷村帳では高二九二石余、田二六町五反余・畑九町六反余、ほかに浜松塩口として四二〇石を記す。寛永二年(一六二五)には旗本服部領(記録御用所本古文書)正保郷帳では幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本北条領。享保郷村高帳では旗本大沢領。旧高旧領取調帳では堀江藩大沢氏領。宿村大概帳によると地内の東海道の長さは左側九町二六間(うち家並五町余)・右側九町半余(すべて家並)

高塚村
たかつかむら

[現在地名]岡山市高塚

三手みて村の西に位置する。西のすな川と東の足守あしもり川に挟まれ、村の南部で両川が合流する。北を松山まつやま往来が東西に通る。慶長六年(一六〇一)木下家定に「高塚村生石内」二五三石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図も同高、足守藩領。幕末まで同藩領。両川に挟まれているためか、正保郷帳では「水損所大」とする。

高塚村
たかつかむら

[現在地名]婦中町高塚

下条げじよう川の最上流部に位置し、北はみやたに村、南は猫坂ねこざか峠を経て吉住よしずみ村。村名の由来は高い塚(古墳か)が存在したので名付けられたという(婦負郡志)。正保郷帳では高一六石余、田方八反余・畑方二反余。享保六年(一七二一)の高三〇石(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高二八石・定免四ツ六歩、新田高一四石余・平均免六歩八厘余、小物成は山役二八四匁一分七厘(高物成品々手鏡)。水請高七石の吉野入堤、同四石の北谷堤がある(「富山藩高物成帳」斎藤家文書)

高塚村
たかつかむら

[現在地名]八女市高塚

福島ふくしま町の南に位置し北を花宗はなむね川が流れる。年未詳の六月二〇日の権律師定怡書状(有浦家文書/南北朝遺文(九州編)六)によれば、定怡は「高塚」などの証文を至徳元年(一三八四)九月頃に布陣していた吉野よしの(現熊本県城南町)を出立するとき、山方の寺に預けたことを松浦有浦女地頭(千代寿)に伝えている。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「たかつか村」とみえ、高二七八石余。本高は三九三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高六九五石・役高五九〇石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高五九二石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田二五町一反余・開田一町一反・畑田三町四反余・畑八町九反余・居屋敷五反余。

高塚村
たかつかむら

[現在地名]滑川市高塚

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇端部に位置し、南西は坪川新つぼかわしん村、北は富山湾に臨む。南端を北陸街道が通る。藩政期初頭に丁松が植えられ街道が整備されたが、当地にはその一部が残り、門松の名で親しまれる。「越後下向日記」によると、延徳三年(一四九一)三月一四日に冷泉為広が「タカツカ」を通過している。正保郷帳では高三二一石余、田方二〇町七反余・畑方七反、新田高三一七石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高三三五石、免四ツ、小物成は鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は次郎左衛門、家数一七はすべて百姓。

高塚村
たかつかむら

[現在地名]小浜市高塚

国富くにとみ平野の東端に位置し、村内南部をきた川が西流する。北は栗田くりた村、東は山を境に太良庄たらのしよう村。中世は栗田保に属した。天文一七年(一五四八)の羽賀寺寄進札中に「高塚四郎大夫」と記すものがある。正保郷帳によれば田方二〇六石余・畠方一七石余で、国富郷七ヵ村のうちもっとも少ない。

高塚村
たかつかむら

[現在地名]岩出町高塚

紀ノ川中流右岸にある。北東は溝川みぞかわ村。村の南西端で村内南部を流れる春日かすが川が紀ノ川に合流する。大和街道が通り、街道沿いに集落がある。「続風土記」は「近村にては土地高く塚の形なる所に村居するを以て名つくるならん」と記す。中世は石手いわで庄に含まれたと思われる。

慶長検地高目録によれば村高五二七石余、小物成五斗五升七合。天保郷帳では村高六一六石余。岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)に「新田畑古荒起共」として面積九町八反余、石高八七石余があげられており、この頃までに開発が行われていたことが知られる。同指出帳によると新田畑古荒分を除いた本田畑は、田二九町四反余で高四三五石余、畑一町七反余で高二五石余。

高塚村
たかつかむら

[現在地名]加賀市高塚町

柴山しばやま潟に流入する御橋みはし川右岸の北陸街道沿いの村。御橋川に架かる御橋は江戸時代には長さ五間半・幅二間の石橋で(江沼志稿)御幸みゆき橋ともいい花山院が御幸の折に渡ったと伝える(加賀志徴)。北陸街道の動橋いぶりはし―高塚間はかつて七曲ななまがりといわれ、軍事上の目的から屈曲した道となっていた。延徳三年(一四九一)三月一〇日、冷泉為広は「タカツカ」を通り花をめでている(越後下向日記)。天文二四年(一五五五)七月二三日、越前の朝倉教景の加賀侵攻に際して、千足せんぞく城に拠って防戦した一向一揆勢は「高塚・動橋ヲ指テ」敗走したという(朝倉始末記)

高塚村
たかつかむら

[現在地名]豊橋市高塚町

七根ななね村の西に続き、遠州灘に面する村。元和九年(一六二三)旗本戸田氏の知行所となり、所領の一部に変遷はあったが、明治に至るまで戸田氏領。寛文一一年(一六七一)からの高塚村免定書付(草間文庫蔵)によると、海岸浸食がはなはだしく、寛文一一年、延宝八年(一六八〇)、貞享三年(一六八六)、同四年、宝永四年(一七〇七)、享保一一年(一七二六)に年貢の減免が行われている。

高塚村
たかつかむら

[現在地名]榛原町大字高塚

芳野ほうの川西岸、福西ふくにし村東方の丘陵に立地。宇陀郡田地帳案(春日神社文書)に「高塚庄 定田八丁」とあり、宇太水分神社古図に「高塚」と記す。現京都市の高山こうざん寺の建長八年(一二五六)の「三昧耶吉祥」奥書に「於宇陀郡高塚寺書了」、文永八年(一二七一)の金沢文庫古写本跋に「大和国宇多郡之内高塚極楽寺」とあり、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)にも「高塚 舜覚上人」とみえる。寛永郷帳・「大和志」などは「鷹塚村」と書く。

慶長郷帳の村高七八・四二石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android