馮国璋(読み)ふうこくしょう(英語表記)Féng Guó zhāng

改訂新版 世界大百科事典 「馮国璋」の意味・わかりやすい解説

馮国璋 (ふうこくしょう)
Féng Guó zhāng
生没年:1859-1919

中国軍人。河北省河間県の人。字は華甫。淮(わい)軍に投じて北洋武備学堂の第1期生となり,袁世凱もと頭角を現した。段祺瑞,王士珍とともに〈北洋三傑〉と称され,袁家の家庭教師を妻にもらったが,袁世凱の帝制には協力的でなかった。張勲の復辟後,代理大総統となり,直隷派領袖として段祺瑞の北京政権独占に対抗した。政治家としての業績は無に等しいが,企業投資などではかなりの成功をおさめており,半植民地軍閥の一典型である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「馮国璋」の意味・わかりやすい解説

馮国璋
ふうこくしょう
Feng Guo-zhang; Fêng Kuo-chang

[生]咸豊9(1859)
[没]1919
中国,民国初期,直隷派軍閥の首領。「ひょうこくしょう」とも読む。河北省河間県の人。字は華甫。武備学堂卒業。清末,陸軍部副大臣兼禁衛軍都督などを歴任辛亥革命では袁世凱のもとで革命軍を鎮圧第二革命南京を攻略し,華中に直隷派の地盤を築いた。 1917年張勲の復辟事件ののち,代行大総統となり,安徽派段祺瑞,南方の西南軍閥,国民党との間にあって互いに対立した。 18年徐世昌によって北京政府統一のため,段祺瑞とともに引退させられた。

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百科事典マイペディア 「馮国璋」の意味・わかりやすい解説

馮国璋【ふうこくしょう】

中国の軍人。半植民地時代の中国の軍閥の典型。河北省河間県生れ。字(あざな)は華甫。袁世凱に抜擢され,軍事集団を率いた。1916年の袁世凱の没後北洋軍閥の一つ直隷派の領袖として段祺瑞の安徽派に対抗した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「馮国璋」の解説

馮国璋 ふう-こくしょう

1859*-1919 中国の軍人,政治家。
咸豊8年12月4日生まれ。李鴻章(り-こうしょう)の淮(わい)軍にはいり,北洋武備学堂の1期生となる。日清戦争後,軍事随員として来日。帰国後は袁世凱(えん-せいがい)にしたがい,辛亥(しんがい)革命で革命軍を攻撃。袁の死後,直隷派の首領となるが失脚した。1919年12月28日死去。62歳。河北省出身。字(あざな)は華甫(かほ)。姓は「ひょう」ともよむ。

馮国璋 ひょう-こくしょう

ふう-こくしょう

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「馮国璋」の解説

馮国璋(ふうこくしょう)
Feng Guozhang

1859~1919

中国の軍人。河北省河間県の人。袁世凱(えんせいがい)に仕え,1917年秋に黎元洪(れいげんこう)のもとで副大総統,のち代理大総統。その頃に直隷派首脳となり,安徽(あんき)派と対立した。

馮国璋(ひょうこくしょう)

馮国璋(ふうこくしょう)

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世界大百科事典(旧版)内の馮国璋の言及

【北洋軍閥】より

…それは袁世凱の新軍創建に起源し,新軍の拡充にともない,1905年(光緒31)には〈北洋6鎮(鎮は師団)〉を数えるにいたった。袁は新軍創建にあたり北洋武備学堂(李鴻章が1885年に天津に創立した兵学校)出身の段祺瑞,馮国璋らを抜擢した。かれらは実戦経験豊富な淮(わい)軍の旧式将領から軽視されてきたため,袁に恩義を感じて忠誠に励むこととなった。…

※「馮国璋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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