香川(県)(読み)かがわ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「香川(県)」の意味・わかりやすい解説

香川(県)
かがわ

四国地方の北東部にある県。瀬戸内海に突出する讃岐(さぬき)半島全域と、瀬戸内海に浮かぶ小豆(しょうど)島、豊(て)島、直(なお)島、塩飽(しわく)諸島などの島々から構成される。面積1876.78平方キロメートル、人口95万0244(2020)で、面積は、全国でもっとも小さく、人口密度は農業県としては高い。また、平坦(へいたん)地が多く、可住地面積率では全国10位(2021)である。四国の玄関口にあたり、中央官庁や大手企業の四国出先機関が県庁所在地の高松市に集中するため活気があり、かつ1960年代後半に造成された番の州(ばんのす)コンビナートなどの発展もあって、過疎化の進んだ四国の他の3県に比べ、人口減少からの回復が早かった。1966年(昭和41)を最低に人口は上向き、1980年末には100万人を突破した。1985年に過疎地域振興特別措置法(現、過疎地域持続的発展支援特別措置法)の適用を受けた町は少なく、小豆(しょうず)郡池田町(現、小豆島(しょうどしま)町)ほか計4町にすぎなかった。しかし、近年人口の減少(2000年より23年連続減少)とともに、過疎地域も広がり、2022年(令和4)時点で過疎地域持続的発展支援特別措置法の適用を受けているのは、小豆郡小豆島町、同郡土庄(とのしょう)町、香川郡直島町、東かがわ市、仲多度郡まんのう町、同郡琴平町ほか計10町となっている。比較的高い山地は南の徳島県境の讃岐山脈だけで、讃岐山脈も最高峰竜王山でも1060メートルである。平地に散在する山塊は香川県独特のもので、飯野山に代表される富士山型のものと、屋島に代表されるテーブル型のものに分かれる。どちらも開析溶岩台地で、山頂の安山岩の小さいのがビュートで富士山型、大きいのがメサの屋島型である。香川県は気候的にも恵まれている。日照時間は全国でも比較的長い県で、穏やかな瀬戸内式気候である。台風も四国山地を越えると勢力が衰え、高潮も鳴門(なると)海峡に阻まれる。長年讃岐を苦しめてきた日照りの害も、香川用水ができて、島嶼(とうしょ)部を除くと水不足の心配はほぼなくなった。春先に多い海上の濃霧による交通障害も、瀬戸大橋の完成によって解消した。以上のように、香川県は風光明媚(めいび)で災害の少ない、自然に祝福された県といえよう。

 かつての讃岐一国からなり、2020年10月時点で、8市5郡9町により構成される。

[坂口良昭]

自然

地形

『万葉集』に柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が「玉藻良し讃岐の国は国柄か見れども飽かぬ」と歌っているように、風光が美しい。南部の讃岐山脈は竜王山を中心に大川山(だいせんざん)、大滝山など1000メートル前後の峰々が並び、早壮年期の深いひだをみせている。山脈の大部分は内帯では珍しい砂岩・頁(けつ)岩の互層からなる和泉(いずみ)層群で、山頂平坦面も残る。山地中には牧場や高冷地野菜団地や茶畑などが造成されている。山脈の北側前面には緩やかな花崗(かこう)岩の丘陵地帯が広く展開し、松林に覆われ、かつてはマツタケの特産地であった。近年はゴルフ場や高松空港が造成されている。山地からは放射状に河川が流出し、北流して瀬戸内海に注ぐが、香東(こうとう)川は高松平野、土器(どき)川は丸亀(まるがめ)平野、財田(さいた)川と高瀬川は三豊(みとよ)平野をつくっている。総称して讃岐平野とよぶ平野部には開析溶岩台地のメサとビュートが発達して讃岐独特の景観をなしており、メサ型の屋島、ビュート型の飯野山などは沿岸部とともに瀬戸内海国立公園に属している。

[坂口良昭]

気候

瀬戸内式気候で、かつての全国一の塩田県にふさわしく、年降水量は全国平均の約70%、年間日照時間は2300時間余で全国平均の113%と多く、太陽に恵まれた県である。一時期三豊市仁尾(にお)地区に世界一といわれる太陽熱発電実験所が建設されたのも当然といえる。瀬戸内海の交通を乱し、四国を離島化する春から初夏に多い霧は、全国的にみて発生回数がとくに多いとはいえないが、その影響するところは大である。1955年(昭和30)5月11日、死者168人を出した国鉄連絡船紫雲(しうん)丸の濃霧による衝突沈没事故は忘れられない大事故である。その後は慎重な運航によって大事故はないが、小さな衝突事故は絶えない。紫雲丸事件を機に瀬戸内海架橋運動(本州四国連絡橋)がおこり、事故から23年目の1978年に岡山県児島(こじま)と坂出(さかいで)を結ぶ瀬戸大橋の建設が始まり、1988年完成した。兵庫県神戸と徳島県鳴門(なると)、広島県尾道(おのみち)と愛媛県今治(いまばり)を結ぶルートも建設が進められ、1999年(平成11)までにすべて完成した。香川県は比較的台風災害が少ない所であるが、小豆島では1974年7月に死者29人、1976年9月には39人という豪雨による大惨事が起きている。

[坂口良昭]

歴史

先史

1958年(昭和33)に五色(ごしき)台の一角の国分台(高松市・坂出市)から大量の旧石器が発見された。硬くてたたくと妙音を発するサヌカイト(讃岐岩)でつくられており、五色台が石器の一大供給地であったようである。縄文、弥生(やよい)時代の遺跡も多いが、とくに青銅器時代になると、近畿文化圏を示す銅鐸(どうたく)と、北九州文化圏の銅剣、銅鉾(どうほこ)の両方の遺物が数多く発見されている。香川県が瀬戸内海を介して当時の先進文化圏の一環をなし、また境界帯であったことがわかる。

[坂口良昭]

古代

大化改新後は南海道の一国讃岐を称した。讃岐の国府は綾(あや)川の中流、現在の坂出市府中町に置かれ、ここを中心に讃岐全域に条里制が敷かれた。その遺構がよく残っていて、現在の水利体系や道路体系に強い影響を与えている。また、国府から約2キロメートル東方の現在の高松市国分寺町地区には756年(天平勝宝8)ごろ讃岐国分寺が建てられた。讃岐国司のうち、奈良時代に大規模な溜池(ためいけ)の満濃池(まんのういけ)をつくったと伝えられる道守朝臣(みちもりのあそん)、平安時代に善政を施した紀夏井(きのなつい)、教育に力を注いだ菅原道真(すがわらのみちざね)などが有名である。道真はいまも滝宮天満宮(綾川町)に祀(まつ)られて県民の信仰が厚い。讃岐からはまた、空海(弘法(こうぼう)大師)、円珍(智証(ちしょう)大師)などの高僧が輩出した。

[坂口良昭]

中世

1185年(文治1)の屋島の源平の合戦は平家の滅亡を決定的なものにした。鎌倉、室町、戦国の時代を通じて、讃岐も群雄割拠の時代が続いた。鎌倉時代には後藤、近藤、三浦、北条(ほうじょう)各氏が守護職を務めた。室町時代には足利(あしかが)一門の細川氏が室町幕府管領(かんれい)として讃岐全土を守護領国とした。細川氏は瀬戸内海に臨み水陸要衝の地である宇多津(うたづ)を城下町とした。宇多津は讃岐の中心として、また四国の門戸として繁栄を極めた。なお、中世を通じて讃岐の地元の雄として三百数十年にわたって勢威を誇ったのは香西(こうざい)氏であった。香西氏は勝賀(かつが)城(高松市)を根拠にして香東、香西、綾南条(あやなんじょう)、綾北条の4郡を領有した。室町幕府の崩壊とともに細川氏は阿波(あわ)の三好(みよし)氏に滅ぼされ、讃岐は三好氏の領有するところになった。まもなく1575年(天正3)ごろから土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)の四国平定が始まり、1584年には讃岐は長宗我部氏によって攻略された。まさに16世紀後半の讃岐は戦乱のちまたとなり、荒廃の極と化した。讃岐を最終的に統一したのは豊臣(とよとみ)秀吉である。1585年、秀吉の大軍の前に長宗我部氏は降伏し、讃岐は仙石氏、のち尾藤氏に与えられた。

[坂口良昭]

近世

尾藤氏の時代は短く、1587年(天正15)には生駒(いこま)氏が讃岐国に封ぜられ、1640年(寛永17)まで4代にわたって生駒氏(17万石)の時代が続く。初代親正(ちかまさ)は1588年に高松城を築き、城下町を開き、さらに1597年(慶長2)には丸亀(まるがめ)城とその城下町を建設した。生駒時代に忘れてならないのは西島八兵衛(1596―1680)の業績である。八兵衛は津藩から招かれた土木家で、1628年(寛永5)高松藩の普請奉行(ぶぎょう)となった。当時香東川の支流が高松城下を流れ、洪水などの災害をもたらしていたのをせき止め、現流路1本に固定したり、90もの主要溜池を開いたり、新田を開発した。しかし八兵衛の事業の途中で、生駒家は御家騒動から、1640年出羽(でわ)(秋田県)矢島へ移封された。その後讃岐は2分割され、常陸(ひたち)(茨城県)下館(しもだて)から親藩松平氏が高松藩12万石に、一方、丸亀には肥後(熊本県)富岡から山崎氏が5万石で入封して丸亀藩を興した。山崎氏断絶後、1658年(万治1)には播磨(はりま)(兵庫県)龍野(たつの)から京極(きょうごく)氏が移封され6万石を領した。その後、丸亀藩は1万石を分知して多度津藩(たどつはん)を独立させた。

 江戸時代、讃岐三白(さんぱく)の名で知られる塩、砂糖、綿の三大特産物で高松藩の領国経済は比較的豊かであった。18世紀ごろから大塩田の開田が進み、とくに1829年(文政12)に久米栄左衛門(くめえいざえもん)によって完成をみた坂出塩田(約200ヘクタール)は全国一の規模を誇るものであった。砂糖は1790年(寛政2)、サトウキビ栽培に成功した向山周慶(さきやましゅうけい)(1746―1819)の功績である。東讃のサトウキビ畑は1865年(慶応1)のピーク時3800町歩(3800ヘクタール)に達したという。綿は西讃を中心に広くつくられた。これら三大産物も砂糖、綿は明治時代に滅び、塩田も1971年(昭和46)全国一斉に廃止され、工場制のイオン交換樹脂膜製塩法に切り替えられた。

 各藩は新田開発に熱心であったが、丸亀藩の大野原開墾はとくに名高い。近江(おうみ)(滋賀県)の豪商平田与一左衛門は私財をなげうって、1643年(寛永20)から開墾を始め、井関池を築造し、780ヘクタールという大墾田を完成させた。その後平田家は西讃1万石といわれる大庄屋(おおじょうや)となったのである。

 金毘羅信仰(こんぴらしんこう)は近世にピークに達し、全国津々浦々から参詣(さんけい)客が集まり、大坂には多数の金毘羅船があって、三日三晩の旅程で定期的に運航していた。東からの客は丸亀へ、西からの客は多度津へ上陸、丸亀街道、多度津街道をたどった。四国にはこのほか阿波(あわ)、土佐、高松の諸街道があった。これら五街道沿いには、いまも灯籠(とうろう)や道標が多数残っている。この金毘羅信仰を全国に広めるうえで大きな役割を果たしたのが塩飽(しわく)の水夫である。塩飽水夫は地の利を生かし、古くは海賊として鳴らしたが、のちには織田信長、豊臣秀吉、さらに徳川家康と、時の権力に船方として協力し、その代償として、島民のうち650人が御用船方に任じられ、1250石の自治制度が認められた。これを塩飽人名(にんみょう)という。島民は海運に長じ、千石船多数を擁して西廻(にしまわり)航路を牛耳(ぎゅうじ)った。また江戸末期に初めて太平洋を横断した咸臨(かんりん)丸の乗組員のうち35人は塩飽の水夫であった。塩飽本島には現在も勤番所などの史跡が残っている。なお、小豆島は江戸時代には天領であったが、江戸末期に西半分は備前(びぜん)(岡山県)の津山藩領となった。明治の廃藩置県で北条(ほうじょう)県に属したが、その後香川県に移管された。

[坂口良昭]

近代

廃藩置県後、香川県の誕生までには紆余(うよ)曲折があった。1871年(明治4)高松県、丸亀県を廃し第一次香川県が発足したが、2年後には徳島と合併して名東県(みょうどうけん)となり、1875年には分離独立して第二次香川県となった。さらに1年後には愛媛県に合併され、愛媛時代が12年も続いた。鉄道もない時代に遠く松山の県庁まで行くのはたいへんな難行であった。熱心な運動の結果、ようやく1888年12月に現在の香川県になった。

[坂口良昭]

産業

農業・畜産業

古くから水田農業が盛んだったことは条里遺構が全県にみられることや、1.6万余といわれる溜池の分布からわかる。讃岐ではたび重なる日照りの害に泣かされ続けた農民は、水利慣行を重んじ、水争いでは血を流しても戦ったという。しかし、第二次世界大戦後は山間部にダムが造成され、干害も減った。さらに1974年(昭和49)には待望久しかった香川用水の一部通水が始まり、吉野川の水が讃岐山脈をくぐり抜けて流れてくるようになり、さらに1981年全線が完成し、ほぼ干害の歴史に終止符が打たれた。

 香川の農業は零細だが集約的である。2010年(平成22)の1戸当り耕地面積は約0.8ヘクタールで全国平均の60%ほどであるが、1戸当り農用機械の所有台数は全国上位である。かつては米と麦の二毛作が県の伝統的な耕作形態であったが、現在ではそれにかわって、レタス、タマネギキュウリなどの野菜栽培が盛んである。とくに三豊市南部のレタスは有名である。また果樹栽培農家率も高く、これは1887年(明治20)ごろ導入されて以来、県西部に広く普及したミカン栽培によるものであろう。ミカン栽培発祥の地といわれる坂出市の松山はいまも有数の栽培地である。ミカン以外に古くから富有(ふゆう)ガキやモモの栽培も盛んであり、近年はブドウ栽培が普及している。県花、県木に指定されているオリーブの栽培は中心の小豆島でも振るわない。地中海地方からの輸入の自由化で採算割れし、かつ害虫の発生などが原因で、おもに観光用に栽培されている。小豆島や丸亀市綾歌(あやうた)地区、三豊市詫間(たくま)地区などでは電照ギクや露地花の生産が多い。工芸作物では古くからタバコが全県に分布し、近年は高松市塩江(しおのえ)地区や三豊市高瀬(たかせ)地区で茶の栽培が急増している。香川県は農業協同組合の活動が活発で、とくに四国大川農協(現、香川県農協)のユニークな活動は全国的に知られる。

[坂口良昭]

水産業

かつてはタイ網でにぎわった瀬戸内漁業も高級魚はすっかり姿を消し、現在ではカタクチイワシイカナゴが漁獲の二大魚種となっている。カタクチイワシは伊吹島が本場で煮干しや飼料に加工される。イカナゴは高松市庵治(あじ)町をはじめ各漁港に水揚げされ、幼魚は佃煮(つくだに)、飼料に加工される。一方、サケ・マス船団による遠洋漁業は津田港が中心であったが、1990年(平成2)を最後に廃止された。瀬戸内海は海水汚染などで漁場が狭くなる一方で、獲(と)る漁業から育てる漁業へと転換している。養殖漁業では先進県で、日本のハマチ養殖第一号は引田(ひけた)町(現、東かがわ市)安戸池(あどいけ)で昭和の初期に成功をみた。野網和三郎(のあみわさぶろう)の先見の明と努力によるものである。ハマチ養殖は東北地方以外では全国にみられるが、発祥地である東かがわ市のハマチ養殖では環境の悪化に伴い、数年ごとに発生する赤潮による被害が1970年代以降、大きな問題となっている。県では栽培漁業センターをつくり、各種の稚魚を育てて海に放流し、将来の瀬戸内海漁業の回復を図っている。観音寺市(かんおんじし)は江戸時代からかまぼこ類の魚肉加工業が盛んであるが、最近は、原料は北海道からのスケトウダラなどを利用している。

[坂口良昭]

工業

第二次世界大戦前からの香川の近代工業としては、直島の銅製錬所と県内各地に点在する綿紡績や農機具製造、それに高松の製紙業などがあげられる。直島の銅製錬は、佐賀関(さがのせき)(大分県)、日比(ひび)(岡山県)、四阪(しさか)島(愛媛県)とともに煙害を避けて建設された瀬戸内銅製錬立地の一つである。1917年(大正6)に三菱(みつびし)合資会社(現、三菱マテリアル)によって製錬所が設立され、かつては県で唯一の重工業であった。2009年(平成21)では約3300人の直島島民のほぼ半数が製錬所に関係している。130メートルの煙突2本が島のシンボルとなっている。近代紡績工場は土庄(とのしょう)町、丸亀市、観音寺市に立地をみるが、大正末から昭和初期にできたものが多い。高松市や坂出市、東かがわ市にもあったが現在他の業種に転換されている。

 以上に対し、第二次世界大戦後、とくに高度経済成長期後半に急速な成長をみせているのが臨海埋立地を利用した工業である。その代表は坂出市と宇多津町にかけて立地する番の州コンビナート(ばんのすこんびなーと)で、1964年(昭和39)埋立て開始と同時に川崎重工業の造船工場が進出、続いてアジア共石(現、コスモ石油)精油所、三菱化成(現、三菱ケミカル)のコークス工場、吉田工業(現、YKKAP)のアルミ加工工場、四国電力などが進出、造船、石油、アルミニウム系コンビナートが誕生した。番の州はもともと浅い州で、その上を備讃瀬戸航路浚渫(しゅんせつ)工事の土砂を利用して埋め立てたので地価が安く、土質がよいことが特長である。番の州に続いて丸亀市、多度津(たどつ)町、三豊市にも埋立地が造成され、それぞれ中堅企業の立地をみている。東讃では1980年志度町(しどちょう)(現、さぬき市)に多田野鉄工所(現、タダノ)などが進出し、香川県も瀬戸内海臨海工業地域の一角を占めることとなった。

[坂口良昭]

伝統産業

江戸時代からの伝統産業を代表するものに団扇(うちわ)と漆器、石材加工、しょうゆ、そうめんなどがあり、明治以後では手袋、ボタン、盆栽などがあげられる。団扇は丸亀市の特産で全国生産の80~90%を占める、丸亀団扇は1997年(平成9)、国の伝統的工芸品に指定された。丸亀藩の下級武士の内職として始まり、金毘羅参りの土産(みやげ)として全国的に有名となった。「伊予竹に土佐紙はりて阿波ぐ(あおぐ)れば讃岐うちわで四国(至極(しごく))涼しい」とうたわれた。讃岐漆器は高松藩の保護奨励を受け、玉楮象谷(たまかじぞうこく)らの精進によって生み出されたもので、蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)(存星)、彫漆(ちょうしつ)、後藤塗、象谷塗など芸術性の高いものが多い。高度の技術と手間のかかる手作りだけに値段が高く、また後を継ぐ技術者が育ちにくいのが難点である。香川漆器として伝統的工芸品に指定されている。石材加工は庵治石(あじいし)とよばれる細粒花崗(かこう)岩を用いた石灯籠(いしどうろう)や墓石で、現在の高松市牟礼(むれ)町域から旧庵治町域にかけて石材屋が並ぶ。機械化が進んだとはいえ、手作りの部分が多く長年の修業を要する。手袋は全国生産額の90%を占める東かがわ市を中心に東讃に集中している。1899年(明治32)棚次辰吉(たなつぐたつきち)の創始になる。最近は輸出用の生産が韓国、台湾などと競合して苦境にあり、多くの企業が積極的に海外へ進出している。さぬき市大川町を中心に製造している輸出用のシャツボタンも、同じく輸出悪化に悩んでいる。盆栽は高松市鬼無町(きなしちょう)地区と国分寺町地区を中心に、全国一の松の盆栽と苗木類の産地が形成されている。明治初期、鬼無甚三郎の苦心の成果で、日本三大産地の一つに成長した。このほか小豆島ではしょうゆ、佃煮(つくだに)が小豆島町苗羽(のうま)で、手延べそうめんが小豆島町で生産される。

[坂口良昭]

開発

香川県の大規模なプロジェクトである香川用水は1974年(昭和49)通水開始、1981年に全線開通した。また瀬戸大橋は1978年着工、1988年完成、瀬戸大橋にはJR瀬戸大橋線と瀬戸中央自動車道が通じ、本県は本州と陸続きになった。県の開発を促進するうえで重要な幹線である四国横断自動車道の一部をなす高松自動車道が2003年に全線開通。2000年に全線開通した四国縦貫自動車道とともに四国を8の字に結ぶ高速道路網を目ざし、横断道の未開通区間の建設が進められている。一方、ジェット化時代に対応するため2500メートル級の滑走路をもつ高松空港は、香南町(現、高松市)の国際ゴルフ場跡地に1989年移転完成した。現在ソウルと上海(シャンハイ)、台北(タイペイ)などへの便をもつ国際空港となっている。旧空港跡地にはインテリジェントパークとして国・公・私立の各種研究機関が集中している。また高松港頭地区では、都市の拠点となる中核的な施設『新玉藻城(しんたまもじょう)』づくりを目ざす「サンポート高松整備事業」が進められた。これは、国際化・情報化に対応した新しい都心の核づくり(高度情報センター、官公庁施設、文化施設、コンベンションの設置)、四国の表玄関にふさわしい海陸交通のターミナル機能の強化(JR高松駅、高松港などのリニューアル)、「海の都」のシンボルゾーンの形成(埠頭・親水護岸・プロムナードなどを整備し、美しい瀬戸内海の景色を活かした魅力あふれる水辺の空間を創出)を目ざしたもので、2004年3月にオープンした。

[坂口良昭]

交通

1888年(明治21)四国最初の鉄道である伊予鉄道が愛媛県の三津(みつ)(松山市)―古町間に開通したが、翌年香川県でも讃岐鉄道が丸亀―多度津―琴平間に走り、1897年には高松まで結ばれた。後の予讃線である。1910年には宇野―土庄―高松間に国鉄連絡船が就航し、高松は四国の玄関口としての性格をもつようになった。しかし、四国の他の3県の県都を結ぶ鉄道網ができたのは昭和に入ってからで、予讃線の高松―松山間は1927年(昭和2)、高徳線の高松―徳島間と土讃線の高松―高知間は1935年に開通をみた。四国の地形が山地がちのため、トンネルを多用せざるをえなかったからであろう。現在四国のJR線は、高松駅を起点とする予讃線、土讃線、高徳線があって四国各地と連絡し、また本州と四国を結ぶ瀬戸大橋線がある。

 民間鉄道は明治末に高松―長尾間と高松―志度間が開通し、1927年には高松―琴平間も開通した。いずれも現在の琴電(高松琴平電気鉄道)の前身である。なお、丸亀―琴平間の琴平参宮電鉄の電車路線は1963年に廃止され、バス運行にかわった。

 幹線道路については、明治時代、大久保諶之丞(じんのじょう)の個人的努力により四国新道が開かれた。現在の国道32号、33号の前身である。香川県の道路は平野が多いだけに、よく発達しており、道路密度や舗装率は全国でも上位である。1987年に四国初の高速道路として四国横断自動車道の善通寺―川之江間(高松自動車道)が開通した。同自動車道の県内部分は2003年に全線開通している。

 海上交通は国道フェリーや多くの離島航路のほか、阪神から小豆島、神戸―高松間の中距離フェリーや、高松と宇野間、小豆島と姫路や岡山を結ぶフェリー航路などがある。本州四国連絡橋の完成に伴い、廃止、変更された航路も少なくない。

[坂口良昭]

社会・文化

教育文化

平安初期に讃岐からは空海、円珍らの高僧が輩出し、当時の日本の宗教文化の中心をなした。江戸時代に下って、高松藩の5代藩主松平頼恭(よりたか)(水戸藩主徳川頼房(よりふさ)の長子)は平賀源内(ひらがげんない)に薬草を栽培させたり、向山周慶に砂糖づくりを命ずるなど藩経済を安定させたが、学問にも力を注ぎ、宗藩である水戸藩で編纂(へんさん)された『大日本史』の修史を図り、史館の設立を計画した。6代藩主頼真(よりざね)は1780年(安永9)儒者後藤芝山(しざん)(1721―1782)の勧めで講道館をつくり藩校とした。丸亀藩では1794年(寛政6)に藩校正明館が開校し、1825年(文政8)には中士以下の子弟のための学堂敬止堂がつくられた。一方、私塾には江戸後期の高松藩に明善館がある。

 江戸時代、平賀源内と柴野栗山(しばのりつざん)が讃岐を代表する文人、学者であるが、このほかに全国的に名を知られた人は少ない。源内は高松藩の足軽の子弟であったが、植物学、医学、化学など多くの分野に優れ、一時は藩で重用された。栗山は後藤芝山の門で学び、のち幕府の儒者に登用された。明治以後、作家の菊池寛や中河与一、壺井栄(つぼいさかえ)、学者の元東京大学総長南原繁(なんばらしげる)などはよく知られた存在である。政治家には首相大平正芳(まさよし)、社会党委員長成田知巳(ともみ)、民社党創立者西尾末広(すえひろ)などがおり、また経済界で成功した者も多い。こうみてくると香川県はむしろ政治的、経済的風土に富み、文化的風土はやや弱いといえよう。

 教育県といわれ、幼稚園就園率、高校進学率、大学進学率は全国でも上位にあった。社会文化施設は十分とはいえないが、高松市には香川県県民ホールや市立美術館があり、また香川県歴史博物館が1999年(平成11)に開館した(美術館の要素も加えて2008年に香川県立ミュージアムとなった)。評価できるものに五色台教育がある。五色台上に野外教育施設や宿泊施設、瀬戸内海歴史民俗資料館、自然科学館などがあり、県下小・中学生を合宿させ、ユニークな成果をあげている。大学のうち、4年制は国立の香川大学(2003年に香川医科大学と統合、医学部が設置された)、公立の県立保健医療大学、私立の徳島文理大学香川校、高松大学、四国学院大学があり、短期大学は私立で2校ある。国立高松工業高等専門学校と国立詫間電波工業高等専門学校は2009年に統合されて、国立香川高等専門学校が開校した。新聞普及率は全国平均を上回っており、1世帯当り0.8紙(2017。全国平均は1世帯当り0.75紙)である。地方紙の四国新聞も順調に業績をあげている。

[坂口良昭]

生活文化

讃岐は古来干天の害にしばしば悩まされてきた。したがって雨乞(あまご)いの行事が各地に残っている。代表的なものに綾川町の「滝宮の念仏踊」がある。滝宮天満宮の境内で8月25日に行われ、「南無阿弥(なむあみ)どうや、南無阿弥どうや」という単調なリズムながら鉦(かね)、太鼓でにぎやかに、きらびやかな衣装で幾重もの輪になって踊るさまは圧巻である。讃岐国司の菅原道真が雨乞いをしたところ、3日間雨が降り、農民が喜んで踊った故事によるという。国の重要無形民俗文化財に指定されている。念仏踊はかつては各地でみられたが、現在は同じく国指定重要無形民俗文化財のまんのう町の「綾子踊(あやこおどり)」のほか、坂出市、多度津町などに残るにすぎない。小豆島には地芝居とよばれる農村歌舞伎(かぶき)がある。かつては演じられる舞台が20余もあったが、いまでは土庄(とのしょう)町肥土山、小豆島町中山に残るのみで、いずれも重要有形民俗文化財に指定されている。この2か所では村人による芝居が上演されている。秋祭のシーズンになると昔はどこでも獅子舞(ししまい)が付き物であった。最近は廃れてきたが、重要なものは県の無形民俗文化財として保存に努めている。有名なものに三豊(みとよ)市、綾川町などに残る親子・夫婦など一対からなる獅子舞がある。また高松市冠纓神社(かんえいじんじゃ)には日本一の大獅子がある。とくに頭は巨大で、10人余の若者によって支えられる。旧正月ごろ塩飽の島や三豊市の各地で「ももてまつり」がみられる。弓を射って的に当たるかどうかでその年の豊凶を占う行事で県指定無形民俗文化財である。そのほか、シカシカ踊、蹴鞠(けまり)、安田おどり、南川(みなみがわ)太鼓などが県の無形民俗文化財に指定されている。高松市の「ひょうげ祭」は、新池を築造した代官矢延平六(やのべへいろく)の恩顧に報いるための祭りである。旧暦の8月3日(現在は9月の第2日曜日)に、農産物でつくった衣装をつけて練り歩くもので、「ひょうげ」とは「こっけい」の方言である。

 庶民信仰を知るうえで貴重な「讃岐の茶堂の習俗」(国の選択無形民俗文化財)は、徳島県境に近い山村や小豆島、塩飽諸島の広島などでみられる。お堂、四つ足堂、大師堂などとよばれる弘法(こうぼう)大師像や地蔵菩薩(ぼさつ)を祀(まつ)る建物は、村人たちの社交、親睦(しんぼく)の場であり、また四国遍路などへの接待がなされる場でもある。小豆島の虫送りや盆の餓鬼供養(がきくよう)、西讃に多い旧8月1日の八朔(はっさく)節供などは地方色あふれる民俗行事である。塩飽の島や西讃の海岸地方には両墓制がよく残っている。埋め墓と拝み墓を区別し、肉体はけがれたものとして埋め、その墓は粗末である。

 史跡、文化財としては、国宝建造物に坂出市の神谷(かんだに)神社本殿、三豊市の本山寺(もとやまじ)本堂がある。ともに鎌倉時代の建立である。水城として知られる高松城跡(国史跡)には月見櫓(やぐら)、艮(うしとら)櫓などの国指定重要文化財がある。高松藩主の別邸の庭園であった栗林公園(りつりんこうえん)は池泉回遊式で特別名勝に指定されている。メサの典型的地形を示す屋島は国指定史跡・天然記念物で、台上の屋島寺は本堂や十一面千手観音坐像(せんじゅかんのんざぞう)などの国指定重要文化財を蔵している。特別史跡の讃岐国分寺跡には塔と金堂の礎石が残る。金刀比羅宮(ことひらぐう)(旧称、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん))には表書院、奥書院のほか、障壁画などに国の重要文化財の指定を受けているものが多い。金毘羅大芝居とよばれた琴平町の金丸座(かなまるざ)は1835年(天保6)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋である(国指定重要文化財)。1985年(昭和60)から本格的な江戸歌舞伎の公演が毎年行われている。善通寺の金堂と五重塔は国指定重要文化財。多くの寺宝があるが、とくに空海とその母が写したと伝えられる「一字一仏法華経序品」(国宝)は名高い。

 このほか、国指定史跡に、讃岐国分尼寺跡、二ノ宮窯跡、石船積石塚を含む石清尾山(いわせおやま)古墳群、丸亀城跡、塩飽勤番所跡、大坂城石垣石切丁場跡、喜兵衛島製塩遺跡などがある。国指定重要文化財には、丸亀城の天守、大手一の門、同二の門、観音寺市観音寺の金堂、木造涅槃(ねはん)仏像、香川県に現存する最古の農家建築の旧恵利(えり)家住宅、庄屋(しょうや)造りの小比賀(おびか)家住宅などがある。

[坂口良昭]

伝説

代表的な伝説は、弘法大師伝説(こうぼうだいしでんせつ)(空海伝説)と源平合戦である。源平合戦は、屋島を中心にして、那須与一(なすのよいち)の「扇の的(まと)」の話のほか、与一祈り岩、佐藤継信(つぐのぶ)が戦死した地といわれる射落畠(いおちばたけ)、源義経の愛馬太夫黒(たゆうぐろ)や菊王丸の墓など、史実と伝説とをない交ぜにして伝えている。また空海の誕生地だけに大師伝説が多い。幼時に身を投げたという捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)、修行の霊場、産湯(うぶゆ)の井戸などその事跡伝説は限りがない。満濃池(まんのういけ)は大師が手斧(ておの)で修築したと伝える。古くから竜神伝説をもち、竜の話は『今昔物語』にもみえている。貴種流離譚(たん)の代表的なものに崇徳上皇(すとくじょうこう)にまつわるものがある。保元(ほうげん)の乱後四国に配流となり、鼓岡(つづみがおか)(坂出市)で崩御(ほうぎょ)されたが、「血の宮」「煙の宮」「白峰御陵」などに上皇の怨霊(おんりょう)伝説の定着をみることができる。これが『保元物語』や『雨月物語』によって広く世に伝えられた。静御前(しずかごぜん)の母磯禅尼(いそのぜんに)は現在の東かがわ市丹生(にぶ)の生まれといい、静は晩年この地に住んだという。静の墓や筆塚がある。さぬき市の志度寺は謡曲『海士(あま)』で名高い。竜神に奪われた宝玉の行方を追い志度の浦を訪れた藤原不比等(ふひと)は、浦の海女(あま)によって海底から玉を取り返すが、海女はそのために死ぬ。海女との間にできた子の房前(ふささき)が、のちに母の墓を建てたという。境内に海女の墓が残る。平池(高松市仏生山(ぶっしょうざん)町)は築堤のとき、ちきり(機(はた)の用具)を持って通りかかった少女を人柱に立てたと伝えている。滕神社(ちきりじんじゃ)はその少女を祀るという。丸亀城にも人柱伝説がある。小豆島、男木(おぎ)島、女木(めぎ)島、塩飽諸島などの浜に吹き寄せられた寄り物は興味深い数々の伝説を生んでいる。「うつろ舟の姫」「黄色の首輪の蛇」「大盥(たらい)に乗せられた清少納言(せいしょうなごん)」など、みな寄り物伝説の枠のなかに入るものである。

[武田静澄]

『市原輝士・山本大著『香川県の歴史』(1971・山川出版社)』『武田明著『日本の民俗37 香川』(1971・第一法規出版)』『香川大学教育学部地理学研究室編『香川の地理』(1972・上田書店)』『『香川叢書』復刻版・全3巻(1972・名著出版)』『『香川県大百科事典』(1984・四国新聞社)』『木原溥幸・坂口良昭編『角川日本地名大辞典37 香川県』(1985・角川書店)』『香川県編『香川県史』全18冊(通史編1~7、資料編8~15、別編1~3)(1985~1992・四国新聞社)』『木原溥幸編『古代の讃岐』(1988・美巧社)』『『日本歴史地名大系38 香川県の地名』(1989・平凡社)』『『郷土資料事典・ふるさとの文化遺産37 香川県』(1998・ゼンリン)』『梶原景紹著『讃岐国名勝図会(版本地誌大系20)』(1999・臨川書店)』『熊野勝祥著『香川県明治教育史』(2000・香川県図書館学会)』『天野武監修『四国地方の民俗地図(都道府県別日本の民俗分布地図集成11)』(2001・東洋書林)』『伊丹正博、徳山久夫、細川滋著『香川県の百年(県民100年史37)』(2003・山川出版社)』


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