飯野藩(読み)いいのはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「飯野藩」の意味・わかりやすい解説

飯野藩
いいのはん

上総(かずさ)国飯野千葉県富津(ふっつ)市飯野)に藩庁を置いた譜代(ふだい)小藩。藩主保科(ほしな)氏。藩祖正貞(まささだ)は高遠(たかとお)城主正直(まさなお)の三子。幼少より徳川家康に近侍した。1629年(寛永6)廩米(りんまい)3000俵を受け、ついでこれを改め上総国周准(すす)・下総(しもうさ)国香取(かとり)両郡のうちで3000石の采地(さいち)を受けた。1630年には大番頭(おおばんがしら)に進み、1633年には4000石の加増を受けた。1648年(慶安1)には大坂定番(じょうばん)に昇進し、摂津国(大阪府・兵庫県)豊島(てしま)、川辺(かわべ)、能勢(のせ)、有馬(ありま)4郡内において1万石を加増され、1万7000石を領有して、飯野に居所を営み立藩した。正貞のあと正景(まさかげ)は義弟正英(まさふさ)に2000石を分与し1万5000石を領有していたが、1677年(延宝5)大坂定番に就任し、丹波(たんば)国(京都府)天田(あまた)郡内において5000石を加増され、2万石を領有した。正貞以降、正景、正賢(まさかた)、正殷(まさたか)、正寿(まさひさ)(大坂定番)、正富、正率(まさのり)(大坂定番)、正徳(まさのり)、正丕(まさもと)、正益(まさます)(若年寄)と10代、約220年余にわたり在封した。1871年(明治4)正益のとき廃藩となり、飯野の地は飯野県、木更津(きさらづ)県を経て、千葉県に編入された。

川村 優]

『『千葉県史料 近代篇 明治初期 1』(1968・千葉県)』

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藩名・旧国名がわかる事典 「飯野藩」の解説

いいのはん【飯野藩】

江戸時代上総(かずさ)国周淮(すす)郡飯野(現、千葉県富津(ふっつ)市飯野)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は明新館。徳川家康(とくがわいえやす)に近侍し、当地や下総(しもうさ)国香取(かとり)などに7000石を領有していた保科正貞(まささだ)が、1648年(慶安1)大坂定番(じょうばん)に昇進、摂津(せっつ)国内に1万石加増され、1万7000石となって、飯野に陣屋を設けた。以後明治維新まで10代を数えた。2代正景(まさかげ)は義弟に2000石を分与し1万5000石となったが、77年(延宝(えんぽう)5)に大坂定番に就任、丹波(たんば)国内に5000石加増され、2万石となった。その後も歴代藩主の多くが大坂定番を務め、最後の藩主正益(まさあり)は若年寄にまで進み、第2次長州征伐では幕府軍の指揮を務めた。戊辰(ぼしん)戦争では親戚筋だった会津藩の徹底抗戦に与したため謹慎処分を受けた。1871年(明治4)の廃藩置県で飯野県となり、その後、木更津(きさらづ)県を経て73年千葉県に編入された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「飯野藩」の意味・わかりやすい解説

飯野藩
いいのはん

江戸時代,上総国 (千葉県) 周淮 (すす) 郡地方を領有した譜代小藩。慶安1 (1648) 年保科正貞が1万 7000石を賜わり立藩。のち2万石に加増,飯野に陣屋をおき廃藩置県に及ぶ。江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「飯野藩」の解説

飯野藩

上総国、飯野(現:千葉県富津市)を本拠地とした譜代藩。藩主は保科氏。

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