顕昭(読み)ケンショウ

デジタル大辞泉 「顕昭」の意味・読み・例文・類語

けんしょう〔ケンセウ〕【顕昭】

[1130ころ~1210ころ]平安末・鎌倉初期の歌人歌学者藤原顕輔ふじわらのあきすけ養子。義兄清輔とともに六条家歌学を大成。著「袖中抄しゅうちゅうしょう」「古今集註」など。

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精選版 日本国語大辞典 「顕昭」の意味・読み・例文・類語

けんしょう ケンセウ【顕昭】

平安末・鎌倉初期の歌人、歌学者。藤原顕輔の養子。義兄清輔とともに六条家を代表し、御子左(みこひだり)家(俊成・定家)と対抗。歌は理知的で、歌才には乏しかったが学識が深く、歌学にすぐれた。著「万葉集時代難事」「古今集注」「袖中抄(しゅうちゅうしょう)」「顕昭陳状」他多数。亮公(すけのきみ)。亮阿闍梨(すけのあじゃり)。承元四年(一二一〇以後に八〇歳前後で没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「顕昭」の意味・わかりやすい解説

顕昭
けんしょう

没年不詳。平安末期から鎌倉初期にかけての歌人、歌学者。正三位(しょうさんみ)左京大夫藤原顕輔(あきすけ)の猶子(ゆうし)、実父母は不詳。生年は1130年(大治5)ころと推定され、最終事蹟(じせき)は1209年(承元3)「長尾社歌合(うたあわせ)」への出詠である。幼くして叡山(えいざん)に修学、のち仁和寺(にんなじ)に移り、法橋(ほっきょう)に至る。早く1165年(永万1)ころ『今撰(こんせん)集』を撰(えら)んだが、仁和寺の守覚法親王(しゅかくほっしんのう)に近づいてからは、親王のため多くの注釈書、歌学書を奉った。その考証の詳密さ、博覧強記は類をみない。77年(治承1)兄清輔(きよすけ)の没後は衰退する六条藤家を支え、93年(建久4)の『六百番歌合』では御子左(みこひだり)家と激しく対立し、『六百番陳状(ちんじょう)』を著した。和歌は『万葉集』尊重の立場から古語を多用した生硬なものが多い。著書に『万葉集時代難事(じだいなんじ)』『柿本人麻呂勘文(かきもとのひとまろかんもん)』、『古今集』より『詞花(しか)集』までの抄注(『後撰』『金葉』は散逸)、『古今秘注抄』『散木(さんぼく)集注』『袖中(しゅうちゅう)抄』等。『千載集』以下に入集(にっしゅう)。

[川上新一郎]

 板びさしさすやかややの時雨(しぐれ)こそ音し音せぬ方はわくなれ

『久曽神昇著『顕昭・寂蓮』(1942・三省堂)』『久曽神昇編『日本歌学大系 別巻2・4・5』(1958、80、81・風間書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「顕昭」の意味・わかりやすい解説

顕昭 (けんしょう)
生没年:1130ころ-1210ころ(大治5ころ-承元4ころ)

平安末・鎌倉初期の歌人。藤原顕輔の猶子。清輔・重家・季経らの義兄弟。清輔とともに六条家の歌学を確立した。1149年(久安5)《山路歌合》に出詠してから1207年に《日本紀歌註》を著すまで59年の歌歴には,多くの歌合に参加し,50歳ころからは判者として重きをなした。藤原俊成の主宰する御子左家(みこひだりけ)の歌学と対抗して,六条家歌学の代表的な論客であったが,顕輔・清輔の死後,《六百番歌合》における俊成の判定に対して抗議した《顕昭陳状》はとくに有名。歌学者としての顕昭には《万葉集時代難事》《詞花集註》《散木集註》《柿本人麿勘文》《拾遺抄註》《袖中抄》《古今集註》《今撰和歌集》など多数の著述があるが,これらの大部分は,顕昭が恩顧をうけた仁和寺の守覚法親王のために撰進したものである。顕昭の歌で勅撰集に入ったものは,《千載集》《玉葉集》その他で計39首に及んでいる。
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百科事典マイペディア 「顕昭」の意味・わかりやすい解説

顕昭【けんしょう】

平安末・鎌倉初期の歌学者,歌人。藤原顕輔の猶子で清輔の義弟。清輔とともに六条家歌学を確立した。藤原俊成の《六百番歌合》の判詞を批判して争った《六百番陳状(顕昭陳状)》は有名である。《古今集注》《袖中抄》など考証注釈の著が多い。《千載和歌集》その他の勅撰集に39首入集。
→関連項目歌学寂蓮

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「顕昭」の意味・わかりやすい解説

顕昭
けんしょう

[生]大治5(1130)頃
[没]承元4(1210)頃
平安時代末~鎌倉時代前期の歌人,歌学者。藤原顕輔 (あきすけ) の養子。義兄弟の清輔らとともに六条家歌学の中心人物。幼時から延暦寺で修行し,のちに仁和寺に移り,覚性 (かくしょう) 法親王や守覚法親王と親交があった。『今撰集』 (1165頃) ,『拾遺抄註』 (83?) ,『後拾遺抄』 (83?) ,『詞花集註』 (83頃) ,『散木集註』 (83頃) ,『柿本朝臣人麿勘文』 (84) ,『袖中抄』 (85頃) ,『古今集註』 (91) ,『六百番陳状』 (93) ,『日本紀歌註』 (1207) ,『万葉集時代難事』など多数の著述があり,『六百番歌合』『御室五十首』『千五百番歌合』などの作者,判者としても活躍。勅撰集入撰歌は『千載集』以下 40首余。

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朝日日本歴史人物事典 「顕昭」の解説

顕昭

没年:承元3頃(1209)
生年:大治5頃(1130)
平安時代末・鎌倉時代初期の僧侶歌人。左京大夫藤原顕輔の養子。実父母は不明。僧位は法橋に至る。亮君,亮阿闍梨とも呼ばれた。若いとき比叡山で修行したが,やがて離山。仁和寺に入り,覚性法親王や守覚法親王の庇護を受ける。建久5(1194)年『六百番歌合』,建仁3(1203)年『千五百番歌合』など多くの歌合に出詠。『六百番歌合』における藤原俊成の判に反駁して,『六百番陳状』を著すなど,俊成・定家の御子左家に対抗して,歌道家としての六条家の勢力維持に努めた。残した作品のなかには,「鯨とるさかしき海の底までも君だにあらば波路しのがむ」のように,優美な王朝和歌の伝統から逸脱した作品が散見する。歌学書『袖中抄』『万葉集時代難事』や,私選集『今撰和歌集』など,著作は多く,博引旁証の歌学者としても知られている。<参考文献>久曾神昇『顕昭・寂蓮』

(加藤睦)

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世界大百科事典(旧版)内の顕昭の言及

【顕註密勘】より

…別名《古今秘註抄》ほか。六条藤家の顕昭が著した古今集注釈書(現存の顕昭《古今集註》とは別)に,1221年(承久3),藤原定家が自説を〈密勘(内密の考え)〉として書き加えたもの。定家は顕昭の注説におおむね肯定的だが,両者の学風が対照的に異なる例もみえる。…

【古今和歌集】より

…注釈書は藤原教長の《古今集註》が最も古く,治承(1177‐81)ころの作である。ついで顕昭の《古今集註》がある。これは1191年(建久2)に完成し12巻と大きく,現在散逸した資料も多く用いた詳細なもので研究上重要である。…

【袖中抄】より

…《顕秘抄》と題する3巻本もあるが,一般にはそれを増補したとみられる20巻本をさす。1186‐87年(文治2‐3)ころ顕昭によって著され仁和寺守覚法親王に奉られた。《万葉集》以降《堀河百首》にいたる時期の和歌から約300の難解な語句を選び,百数十に及ぶ和・漢・仏書を駆使して綿密に考証。…

※「顕昭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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