日本大百科全書(ニッポニカ) 「韓国併合」の意味・わかりやすい解説
韓国併合
かんこくへいごう
1910年(明治43)8月22日「韓国併合ニ関スル条約」が調印され(公布は29日)、朝鮮が名実ともに日本の植民地となった事実をさす。
日本は1876年(明治9)朝鮮に対して最初の不平等条約である日朝修好条規(江華島条約ともいう)を締結して以来、朝鮮支配をめぐって日清(にっしん)・日露戦争を引き起こした。日露戦争開戦直後の1904年(明治37)2月23日には、すでに朝鮮政府が局外中立を宣言していたにもかかわらず、日韓議定書を強要、軍事上必要な地点を収用し、同年8月22日、第一次日韓協約を結び、日本政府推薦の財政・外交顧問を置くことを認めさせた。日露戦争後ポーツマス条約で朝鮮における優越的立場を認められ、さらに英米の了解を取り付けた日本は、朝鮮の外交権剥奪(はくだつ)を焦眉(しょうび)の急として、05年11月17日第二次日韓協約(保護条約ともいう)を日本軍の圧力の下で締結した。これにより翌年2月韓国統監府が開設され、日本政府の代表者たる統監が外交権を掌握して、朝鮮を保護国とした。諸外国にあった朝鮮の外交機関は全部廃止され、同時に外国公使はソウルを去った。この亡国条約を知った朝鮮の民衆は反日運動を展開、条約に調印した李完用(りかんよう/イワニョン)ら5大臣は「乙巳(いっし)の五賊」とよばれ、民衆の怒りの的となった。この時期には、政治権力を背景に、日本の経済的侵略が一段と強化された。まず日露戦争遂行のための鉄道敷設、通信機関の掌握、港湾の占領などが行われた。また従来の朝鮮の通貨であった葉銭、白銅貨を回収、日本の通貨を通用させた貨幣整理事業(1905)は、日本の商品流通と資本輸出のための軌道をつくり、朝鮮のブルジョアジーに打撃を与えた。さらに土地家屋証明規則などが施行され、日本人は朝鮮内で自由に土地を所有する権利が認められ、08年には日本政府の国策代行機関として東洋拓殖株式会社が設立された。
このように朝鮮の植民地化が進むと、反日闘争はいっそう激化した。1907年ハーグの万国平和会議に朝鮮の独立を訴える密使を送った高宗は帝位を奪われ、同年7月24日、第三次日韓協約を強要され、内政の権限も統監が握った。さらにその秘密覚書で、(1)朝鮮軍隊の解散、(2)司法権の委任、(3)各部次官に日本人を任用、などが取り決められた。8月1日不意を打って軍隊の解散が強行されると、下級兵士を中心に軍人が暴動を起こし、それが民衆の反日運動と合流、全国的な義兵闘争に発展した。日本は正規の軍隊を投入してこれを徹底的に弾圧しながら、秘密裏に併合の準備を進めた。義兵闘争が山を越したころから、朝鮮を名実ともに植民地とする最後の計画が具体化した。09年3月30日、極秘裏に併合案が小村寿太郎外相から桂(かつら)太郎首相に提出され、7月6日には正式に閣議で、「適当ノ時期ニ於(おい)テ韓国ノ併合ヲ断行スル事」を骨子とする「対韓政策確定ノ件」が決定され、同日天皇の裁可を受けた。あとはただ併合のタイミングをうかがうだけとなった。ところが、同年10月安重根(あんじゅうこん/アンジュングン)によって伊藤博文(ひろぶみ)が暗殺されると、日本政府はこれを巧みに利用、併合へさらに歩を進めた。10年5月、併合の使命を帯びて第3代統監になった寺内正毅(てらうちまさたけ)は、6月、朝鮮の警察権を掌握、厳重な警戒体制の下で総理大臣李完用と交渉を開始、8月22日「韓国併合ニ関スル条約」を調印。統治機関として朝鮮総督府を設置(初代総督は寺内正毅)し、その支配は1945年(昭和20)8月15日まで及んだ。
[宮田節子]
『朝鮮総督府『朝鮮ノ保護及併合』(1918)』▽『山辺健太郎著『日本の韓国併合』(1966・太平出版社)』