靖難の変(読み)せいなんのへん

精選版 日本国語大辞典 「靖難の変」の意味・読み・例文・類語

せいなん【靖難】 の 変(へん)

一三九九~一四〇二年、中国、明初の王室内争。第二代の建文帝に対して、叔父燕王永楽帝)が挙兵南京を陥れ、帝位を奪った事件

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デジタル大辞泉 「靖難の変」の意味・読み・例文・類語

せいなん‐の‐へん【靖難の変】

中国、の第2代皇帝建文帝の諸王削廃策に対し、北京の燕王てい永楽帝)が1399年に挙兵、京師南京)を攻略し1402年に帝位を奪った事件。

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改訂新版 世界大百科事典 「靖難の変」の意味・わかりやすい解説

靖難の変 (せいなんのへん)

中国,明初におこった帝位継承をめぐる内乱。太祖洪武帝は帝室の安泰を願って功臣を粛清し,皇子を全国の要所に封じて帝室の藩屛とした。その数は最終的には25にのぼった。ところが,太祖のあとをうけた建文帝は,側近の議をいれ,これら諸王の勢力を排除する政策をとり,周王・湘王・斉王・代王・岷王らが次々と犠牲になった。これをみて,北平(北京)にあった燕王は,削藩の計が自分にもおよぶのを察知して1399年(建文1)7月兵を挙げた。内戦は4年にわたってくりひろげられたが,燕王が京師(南京)を攻略したことによって終了した。勝利をおさめた燕王は即位し,成祖永楽帝となった。建文帝は落城に際し,兵火のなかに没したが,悲運の皇帝への同情から,帝の生死については数々の風説が伝わっている。なお,靖難というのは,挙兵にあたり,燕王が〈君側の奸を除き,皇室の難を靖んずる〉という名目を掲げたことにもとづく。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「靖難の変」の意味・わかりやすい解説

靖難の変
せいなんのへん

中国、明(みん)初に起こった皇位継承をめぐる内乱。太祖朱元璋(しゅげんしょう)は帝室の安泰を願って功臣を粛清し、皇子を全国の要所に分封した。彼らは民政にかかわることは禁じられたが、軍事権を与えられ帝室の藩屏(はんぺい)となるべく期待され、その数は25に上った。ところが、太祖の後を継いだ建文帝は側近の議をいれ、諸王の勢力を排除する政策をとり、周王、湘(しょう)王、斉王、代王、岷(びん)王らが犠牲となった。北平(北京(ペキン))にあった燕王は、削藩の計が自分に及ぶのを察知して、1399年7月に挙兵した。戦乱は4年にわたったが、燕王が京師(けいし)(南京(ナンキン))を攻略して終了し、1402年燕王は即位して成祖永楽(えいらく)帝となった。建文帝は兵火のなかに没したが、悲運の皇帝への同情から、その生死については数々の風説が伝えられている。なお、靖難というのは、燕王が挙兵にあたり、君側の奸臣(かんしん)を除き皇室の難を靖(やす)んずるという名目を掲げたのに基づく。

[寺田隆信]

『寺田隆信著『永楽帝』(1966・人物往来社)』

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百科事典マイペディア 「靖難の変」の意味・わかりやすい解説

靖難の変【せいなんのへん】

中国,明初の王室一族の内争。太祖洪武帝は諸子を王として各地に配置したが,2代建文帝(恵帝)が削藩策をとったため1399年勃発。北京の燕王(永楽帝)は建文帝の機先を制し〈君側の奸(かん)を除き難を靖(やす)んず〉と称して挙兵。南京を攻略,1402年即位。
→関連項目方孝孺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「靖難の変」の意味・わかりやすい解説

靖難の変
せいなんのへん
Jing-nan; Ching-nan

中国,明初の帝位継承をめぐる内乱 (1399~1402) 。洪武帝は天下統一ののち,帝室の安泰をはかるため皇子を全国の要所に分封したが,中央集権をはかって土地人民に対する支配権は与えず,歳禄を給するだけであった。しかし北辺に設けられた晋,燕などの諸藩は辺防のため強大な兵力をもつにいたった。洪武帝の死後,16歳の皇太孫が帝位を継ぎ建文帝となると,斉泰らを用いて諸王勢力の削減をはかった。北平 (北京) の燕王はこの計画を知ると挙兵し,4年にわたる内戦ののち,燕王が勝利を得て帝位につき永楽帝となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「靖難の変」の解説

靖難の変
せいなんのへん

1399〜1402年,のちの明の成祖永楽帝が帝位を奪うために起こした内乱
太祖洪武帝(朱元璋)の没後,孫の建文帝がたつと,方孝孺 (ほうこうじゆ) らを用いて諸王の勢力を除こうとしたので,諸王の最有力者で叔父の燕 (えん) 王棣 (てい) が,君側の奸を除くと称して北京で兵を挙げ,靖難の師と称した。3年の戦いののち,燕王は南京をおとしいれて帝位につき,永楽帝を名のった。建文帝は所在不明となり,焼死と発表されたが,逃走説が後までうわさされた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「靖難の変」の解説

靖難の変(せいなんのへん)

明初の王室一族の内部抗争。2代建文帝の削藩策に対して,1399年叔父の燕王(永楽帝)が「君側の奸(かん)をのぞき,難を靖(やす)んず」との名目で靖難の軍を起こし,首都南京を陥れて1402年帝位についた。

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世界大百科事典(旧版)内の靖難の変の言及

【明】より

…98年帝が死んで皇太孫(建文帝)があとをつぐと,側近たちは諸王の勢力を削減して皇帝の地位を強化しようと考えたが,これを察知した叔父の燕王が,君側の奸を除いて国難を靖(やす)んずるという名目で挙兵した。これが靖難の変で,諸王が帝室の藩屛になると考えた洪武帝の意図は,まったく裏目に出た。4年にわたる内戦の後,南京を陥れた燕王は帝位につき,年号を永楽と改めた。…

※「靖難の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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