青山 杉作(読み)アオヤマ スギサク

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「青山 杉作」の解説

青山 杉作
アオヤマ スギサク


職業
演出家 俳優

本名
青山 達美

生年月日
明治22年 7月22日

出生地
新潟県 北蒲原郡紫雲寺村(新発田市)

学歴
早稲田大学英文科中退

経歴
生家は新潟県北蒲原郡の名刹・紫雲寺。早稲田大学在学中から演劇活動を始め、同大創立記念祭で初舞台を踏んだ時から青山杉作の芸名を名乗る。大正3年僧籍を拒み、演劇に熱中しすぎたため実家からの送金を断たれ大学を中退、内職生計を立てながら劇の演出に当たる。5年村田実とともに劇団踏路社を結成し、牛込芸術倶楽部で長与善郎原作の「画家とその弟子」を公演して旗揚げ。小劇場主義の新劇運動として自然主義に基づくリアリズムを本領とし、7年のイプセン原作「幽霊」が好評を博した。同年村田の紹介で劇団仲間ともに帰山教正らの映画芸術協会に参加。その第1回作品「生の輝き」では老理学博士役を演じた。8年には上高地ロケを敢行した「深山乙女」で帰山とともに監督を手がけ、老いた樵夫としても出演。続く9年の「幻影の女」「いくら強情でも」では監督だけでなく主演も務めた。12年には伊藤大輔のシナリオで「山は語らず」を映画化するが、製作中に関東大震災に遭った。13年築地小劇場の創立同人となり、「青い鳥」「令嬢ジュリー」「大寺学校」などを演出する傍ら「役の行者」などにも出演。また演技指導も担当し、築地的演技システムを作りあげた。同劇団崩壊後は劇団築地、新東京、東京を経て、昭和5年〜15年松竹少女歌劇団、17年〜28年NHK放送劇団で演技指導に従事。この間、19年俳優座同人となり、24年俳優座養成所所長に就任した。一方で映画での出演も続け、黒沢明監督「姿三四郎」「醜聞」、溝口健二監督の「女優須磨子の恋」「雨月物語」、山本嘉次郎監督「悲歌」、伊藤大輔監督「春琴物語」などで枯淡の芸を見せた。三島由紀夫原作の舞台「若人よ蘇れ」に出演中に急逝没後の32年、遺稿集「青山杉作」が刊行された。

受賞
紫綬褒章 NHK放送文化賞(第3回)〔昭和26年〕,毎日演劇賞〔昭和27年〕

没年月日
昭和31年 12月26日 (1956年)

伝記
百年の日本人〈その3〉 川口 松太郎,杉本 苑子,鈴木 史楼 ほか著(発行元 読売新聞社 ’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「青山 杉作」の解説

青山 杉作
アオヤマ スギサク

大正・昭和期の演出家,俳優



生年
明治22(1889)年7月22日

没年
昭和31(1956)年12月26日

出生地
新潟県北蒲原郡紫雲寺村

本名
青山 達美

学歴〔年〕
早稲田大学英文科中退

主な受賞名〔年〕
NHK放送文化賞(第3回)〔昭和26年〕,毎日演劇賞〔昭和27年〕,紫綬褒章

経歴
在学中から演劇活動を始め、大正5年劇団・踏路社を結成し、小劇場主義の新劇運動をおこす。7年帰山教正、村田実らと共に映画芸術協会に参加。「生の輝き」「深山の乙女」「幻影の女」などの作品を手がけた。13年築地小劇場の創立同人となって「青い鳥」などを演出し、また出演もする。そのかたわら演技指導を担当し、築地的演技システムを作る。その後、劇団築地、新東京、東京を経て、昭和5〜15年松竹少女歌劇団、17〜28年NHK放送劇団の指導にあたる。この間、19年俳優座同人、24年俳優座養成所所長となる。新劇、映画、放送劇、オペラなどの演出に幅広く活躍した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「青山 杉作」の解説

青山 杉作 (あおやま すぎさく)

生年月日:1889年7月22日
大正時代;昭和時代の演出家;俳優
1956年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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