雛人形(読み)ひなにんぎょう

精選版 日本国語大辞典 「雛人形」の意味・読み・例文・類語

ひな‐にんぎょう ‥ニンギャウ【雛人形】

〘名〙 三月三日の雛祭に飾る人形。内裏雛(だいりびな)およびその他の人形の総称。おひなさま。ひな。《季・春》
御触書寛保集成‐三六・享保六年(1721)五月「一破魔弓 一羽子板 一雛人形同道具類 右之仕形、段々結搆に成候」

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デジタル大辞泉 「雛人形」の意味・読み・例文・類語

ひな‐にんぎょう〔‐ニンギヤウ〕【×雛人形】

雛祭りに飾る人形。形代かたしろが起源ともいわれ、紙製のものが平安時代からみられる。江戸時代に入って布製で公家の正装姿の内裏雛だいりびなが現れ、数段の雛段に三人官女五人囃子ばやし随身ずいじんなどとともに飾られるようになった。おひなさま。ひな。 春》

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「雛人形」の意味・わかりやすい解説

雛人形
ひなにんぎょう

雛祭に飾る人形。節供人形。雛人形という名称は江戸時代になって生まれたもの。平安時代にはその前身ともいうべき「ひいな」の遊びがあった。「ひいな」は、小さくかわいい意味の古語で、貴族社会では男女一対の小さな紙人形を用いてままごと遊びなどが行われ、それを「ひいな遊び」といった。人形は立った姿の紙雛風のものと推定されるが、これを中心に、貴族の暮らしをまねた館や、食器などの調度をそろえて遊んだ。『源氏物語』(末摘花(すえつむはな))に、「もろともひいなあそびし給ふ」などとあるように、貴族家庭の少女の人形遊びであり、3月の節供とはまだ関係はなかった。

 それと別に、平安時代のころから、季節の変わり目には神に供御(くご)(飲食物)を供えて身体の安泰を祈る信仰があり、それを節供といった。3月は上巳(じょうし)(最初の巳(み)の日)に、紙や植物でつくった人形(ひとがた)(形代(かたしろ))で身体をなでて汚れを祓(はら)い、それを水に流して神送りする行事があった。鳥取地方などでは、3月の節供が済むと、雛を川へ流し捨てる「流し雛」の習俗が現在も残っている。この信仰的な人形(ひとがた)も、雛人形を生み出す源流の一つとなった。

 こうした人形遊びと、呪術(じゅじゅつ)用具としての雛形人形(ひとがた)の信仰とが互いに融(と)け合い、しだいに雛人形への骨格を形成した。江戸時代に入り、太平の世相を迎え、3月の節供が盛んになると、雛遊びが一般化して雛祭に移行し、年中行事として3月3日に定着した。それが広く流行するにつれて人形も発達し、さまざまな作品が飾られるようになって雛とよばれた。

[斎藤良輔]

雛祭

江戸中期ころまで雛遊びとよばれ、これは神遊びの意であった。神を迎えて祀(まつ)り、女児の成長を願い、災厄を祓(はら)う祭りと考えられていた。雛段が普及してきたのは元禄(げんろく)年間(1688~1704)ころからとみられる。それまでは雛段はあまり一般化されず、毛氈(もうせん)などの上に紙雛と内裏(だいり)雛だけを並べたものがほとんどで、調度類も数少なく古代の雛遊びのおもかげをとどめていた。江戸中期から雛祭ということばが生まれ、雛祭の流行から雛人形類、調度が増加してきた。それにつれて雛段様式となり、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)年間(1751~1772)に2、3段となり、続いて安永(あんえい)年間(1772~1781)のころ4、5段のものが現れた。さらに幕末には7、8段のものもみられた。雛祭は最初女子の誕生と関係なかったが、江戸中期から女子の初節供を祝う行事となって、雛人形の贈答が盛んになり、上流階級では雛の使いといって、吊(つ)り台に雛人形や行器(ほかい)、樽(たる)などをのせて贈り物をすることも流行した。さらに、娘が他家に嫁ぐ際にも雛を持参し、嫁入り後の初節供に雛祭を行う風習も生まれた。江戸末期には段飾りも様式を整えてきて、雛段の最上段に内裏雛を置き、階下の段に付随する諸人形を飾った。雛人形はこの雛段に飾る人形の総称である。この雛祭行事は日本独特の人形遊び行事で、明治以後全国的に普及して、各家庭や学校、幼稚園などでも盛んに行われ、国民的行事となっている。

[斎藤良輔]

飾り方の相違

京坂地方では、上段に御殿(御厨子(おずし))を置いてこれに内裏雛を入れ、階下の左右に紙雛、随身(ずいじん)、官女、衛士(えじ)、桜、橘(たちばな)、そのほか犬張り子、這子(ほうこ)などの祓い物や裸人形、衣装人形などを飾り、下段には家具、台所道具に模した調度類、燭台(しょくだい)、菱餅(ひしもち)、白酒をのせた蝶足膳(ちょうそくぜん)などを並べた。江戸では御殿を用いず、かわりに最上段に屏風(びょうぶ)を立てて正面に内裏雛を飾り、下段に紙雛、犬張り子、這子、五人囃子(ばやし)(謡、笛、小鼓、大鼓(おおかわ)、太鼓の囃子の人形)、天神、金時、神馬、当時流行の衣装人形や玩具(がんぐ)を飾り、菱餅、白酒、料理を供え、雛段の左右に雪洞(ぼんぼり)を立てて桃の花を置いた(桃の節供)。当時は内裏雛、紙雛、菱餅、白酒などが決まりのものとされていただけで、ほかは一定せず、飾り方もまちまちであった。江戸末期以後は、江戸では京都形式の官女、随身を取り入れ、これに五人囃子を加えたものを決まりの人形とした。調度も公家(くげ)風にして、江戸の武家、町家風の諸道具を取捨し、現在の十五人揃いの形式がしだいに整えられた。

[斎藤良輔]

種類

紙雛、裂(きれ)製の衣装雛、その代用の土雛などがある。江戸初期の雛遊びには、まず手作りの紙雛を飾った。「ひいな」のころのおもかげをとどめたもので、立った姿の紙細工人形なので立雛ともよばれた。やがて京坂江戸三都に雛市が立つようになり、紙雛以外に商品化された裂製の座り雛が現れてきた。内裏雛とよばれるもので、男雛は衣冠束帯、女雛は十二単(ひとえ)で、内裏(宮中)の天皇・皇后の姿になぞらえてつくられ、この名がついた。紙の立雛は神雛ともいう。江戸時代最初に飾られた男雛は袖(そで)を広げ、女雛は袖を前に重ねた形で、厄祓い人形の天児(あまがつ)、這子に起因しており、江戸初期には室町時代の風俗を写したものがみられた。男雛が烏帽子(えぼし)に小袖、袴(はかま)、女雛は小袖に細幅の帯姿で熨斗(のし)形をしている。その後内裏雛が流行してくると、紙雛は添え物となり、その地位を内裏雛に譲り、雛段に立てかけて飾られた。立雛に続いて登場した内裏雛には、寛永(かんえい)雛、享保(きょうほう)雛、次郎左衛門雛、有職(ゆうそく)雛、古今(こきん)雛など美術的にも優れたものがある。

 雛祭の隆盛に伴って精巧な作品が現れ、江戸幕府はその華美に対してしばしば製作の禁令を出した。大型化されたのも特色の一つで、取締りの対象となったが、その反動として3センチメートルほどの芥子(けし)雛とよばれる超小型の作品も現れた。京都生まれの典雅な次郎左衛門雛と並び、江戸製の写実的な古今雛に人気があった。現在の雛人形はこの古今雛にかたどってつくられている。そのほか、全国各地には土、張り子製などの雛、節供人形があり、現在も郷土玩具として存続している。そのなかには鹿児島産の糸雛などの変わり雛もみられる。頭のかわりに竹の串(くし)を代用させ、顔に相当する部分には色紙を巻き、竹串の先端から麻糸を長く髪形に垂らしているのでこの名がある。人形以外の品を男女一対の雛に見立て、たとえば筆などの文房具や鏡餅などを、それぞれ男雛・女雛に仕立てたものを見立て雛とよんだ。これらの変わり雛は、大正期から百貨店の雛売り出しの客寄せに登場してきた。現在、変わり雛とよばれているものは、時の話題やその年の干支(えと)を扱ったもの、世相を漫画化したものなどがあげられる。雛人形類を売買する市(いち)は江戸初期からみられ、雛市とよんだ。現在は雛市をはじめ羽子板、五月人形の売出しなども、ほとんど百貨店の客寄せ行事となっている。

[斎藤良輔]

『西沢笛畝著『日本の人形と玩具』(1975・岩崎美術社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「雛人形」の意味・わかりやすい解説

雛人形 (ひなにんぎょう)

雛祭に飾る人形。節供人形ともいう。平安時代には,小さな紙人形でままごと遊びをする〈ひいな〉遊びがあった。またこれとは別に,季節の変り目に神に供御(くご)(飲食物)を供えて身体の安泰を願う信仰があり,それを節供といった。3月上巳(じようし)(最初の巳(み)の日)には,紙や植物でつくった形代(かたしろ)で身体をなでて穢をはらい,それを水に流して神送りする行事があった。この〈ひいな〉遊びと〈かたしろ〉信仰とがとけ合い,しだいに雛人形の原型がつくられていった。

 雛人形という名称は江戸時代になって生まれたもので,当時泰平の世相を迎えて3月の節供が盛んになり,雛祭が一般化して3月3日の行事に定着した。その流行につれて,行事に飾る人形も発達し,さまざまな雛人形が生まれた。雛祭は,江戸中期ころまでは〈雛遊び〉と呼ばれていた。これは神遊びのことで,神を迎えてまつり,男女の健やかな成長を願い災厄をはらう祭りと考えられていた。江戸中期から,女子の初節句を祝う行事となって,雛段に飾る雛人形の贈答も盛んになった。雛段がまだ一般化されない以前には,毛氈などの上に紙雛と内裏雛だけを並べるのがほとんどであったが,段飾が様式をととのえてくるにしたがい,江戸末期には雛段の最上段に内裏雛を置き,階下の段に付随する諸人形を飾った。雛人形はこの雛段に飾る人形の総称である。江戸末期以後,江戸では京都形式の官女,随身をとりいれ,これに江戸式の五人囃子(ばやし)を加えたものを決りの雛人形とした。現在もこの形式にならい,内裏雛(2人),官女(3人),五人囃子(5人),随身(2人),衛士(3人)の5種類を,〈きまりもの〉十五人揃いとしている。江戸初期の雛遊びには,手づくりの紙雛を飾った。〈ひいな〉のおもかげをもつもので,立姿から立雛ともいった。これに続いて裂(きれ)製の坐雛が登場した。内裏雛と呼ばれるもので,男雛は衣冠束帯,女雛は十二単姿で,内裏(宮中)の天皇皇后になぞらえたのでこの名がついた。紙製の立雛は,男雛が烏帽子に小袖,袴,女雛は小袖に細幅の帯姿で熨斗(のし)形をしている室町風俗を写したものであったが,内裏雛が流行してくると紙雛はしだいに添えものとなり,内裏雛に首座を譲った。内裏雛は寛永雛,享保雛,次郎左衛門雛,有職(ゆうそく)雛,古今(こきん)雛など美術工芸的にも優れた作品が続出した。江戸幕府はその華美に対してしばしば製作の禁令をだした。京都の典雅な次郎左衛門雛と並び,江戸製の写実的な古今雛に人気があった。現在の雛人形はこの古今雛の型をうけてつくられている。その他,全国各地に土,張子製などの雛,節供人形が郷土玩具として存続している。雛人形類を売買する市は江戸初期からみられ,雛市と呼ばれた。雛人形を飾る雛祭行事は,日本独特の人形遊び行事であり,明治以後全国的に普及した。(図参照)
流し雛
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「雛人形」の意味・わかりやすい解説

雛人形
ひなにんぎょう

3月3日の雛祭 (節句。→三月節供 ) に飾る人形。節句に人のけがれを紙人形に移して川に流していた流し雛の風習が転じて,人形を飾るようになったといわれる。江戸時代中期になって,紙雛から布で正装した「すわり雛」となり,高貴な夫婦を表わした1対の内裏雛の形式をとって以来,人形や調度もふやし,5,7段などの雛段に飾るようになった。上段から内裏雛,三人官女,五人囃子,随身,衛士などを置き,これに屏風,蒔絵道具,高坏 (たかつき) ,膳,ぼんぼり,桜とたちばなをはじめ菱餅,白酒などを供える。なお,江戸時代後期には,次第に時代の好みを反映して,素朴な立ち雛から室町雛,寛永雛,享保雛など種々なものが作られ,末期には頭や手に象牙を用いた,木目込みの贅沢なものも現れた。現在も雛祭が盛大になるにつれて各種のものが作られている。

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百科事典マイペディア 「雛人形」の意味・わかりやすい解説

雛人形【ひなにんぎょう】

雛祭に飾る人形。緋毛氈(ひもうせん)を敷いた雛壇(5段,7段)を設け,男女の内裏(だいり)雛,三人官女,五人囃子(ばやし),随身(ずいじん),衛士,調度(たんす,長持ほか)を飾る。平安時代に始まり,江戸時代に雛祭が一般化して雛人形の名称も生まれた。江戸初期までは紙雛で簡素なものであったが,のち布製ですわった形の雛人形が現れた。現在でも各地に素朴な紙雛がある。
→関連項目極込人形人形

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世界大百科事典(旧版)内の雛人形の言及

【流しびな(流し雛)】より

…3月3日に雛人形を川に流し送る行事。雛祭の人形は,それで身をなでて穢れをはらったあと流し去る人形(ひとがた)(形代(かたしろ))という呪具の系統をひくものとされるが,現在の各地に残る流し雛はそのような古い心意を伝える行事と思われる。…

【雛祭】より

…3月3日の(三月節供)の行事。この日の行事は雛人形を飾り祭るものと,山遊び磯遊びとに大別できる。雛人形を飾り祭るのは,中国伝来の3月上巳(じようし)の行事と日本に古くからある人形(ひとがた)によって身をはらおうとする考え,および貴族の幼女の人形遊びとが結合して,室町時代ごろに一応の形を整えたといわれる。…

※「雛人形」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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