陶晶孫(読み)とうしょうそん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「陶晶孫」の意味・わかりやすい解説

陶晶孫
とうしょうそん / タオチンスン
(1897―1952)

中国作家、医学者。名は熾(しき)。晶孫は字(あざな)。江蘇(こうそ)省無錫(むしゃく)県出身。1906年(明治39)家族とともに来日。九州帝国大学、東北帝国大学医学部・理学部などに学ぶ。九州帝大在学中創造社同人となり、処女作木犀(もくせい)』を日本語で郭沫若(かくまつじゃく)らとの同人誌『グリーン』に発表、1922年中国語に直して『創造』季刊に転載した。多才で音楽的才能にも富み、東北帝大ではオーケストラを組織した。1929年帰国。郁達夫(いくたつふ)から『大衆文芸』を受け継ぎ、その編集にあたるかたわら、人形劇をはじめとする演劇に関心を寄せ、上海(シャンハイ)芸術劇社に加入して活躍した。1931年上海自然科学研究所に入り、社会衛生学を研究。その後一時台湾に住んだが、1950年(昭和25)日本に亡命し、東京大学講師などを務めた。著書としては小説集『音楽会小曲』(1927)、没後に刊行された『日本への遺書』(日本語)などがある。

[小谷一郎]

『『日本への遺書』(1963・普通社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「陶晶孫」の意味・わかりやすい解説

陶晶孫 (とうしょうそん)
Táo Jīng sūn
生没年:1897-1952

中国の作家,医学者。江蘇省無錫(むしやく)の人。幼時期より日本で育ち,処女作《木犀》(1921)も日本文による。九州帝大医学部卒業後,郭沫若夫人の妹の佐藤操と結婚,郭沫若らの創造社に加わり,《音楽会小曲》(1925)などの創作本国で発表。1929年帰国,一時左翼の《大衆文芸》の編集に当たったが,31年から日本占領時代にかけて上海自然科学研究所研究員をつとめ,大東亜文学者大会にも関与,戦後台湾大学教授を経て,50年より日本に定住。日本文集《日本への遺書》(1952,東京)は,温和でユーモラスな言葉により日本人への友情的批判祖国の社会主義的解放への信頼を語る。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「陶晶孫」の解説

陶晶孫 とう-しょうそん

1897-1952 中国の作家,医学者。
光緒23年生まれ。郭沫若(かく-まつじゃく)の義弟。明治39年来日。九州帝大在学中に郭沫若らの創造社同人となる。昭和4年帰国し,「大衆文芸」の編集にあたる。上海自然科学研究所研究員をへて戦後台湾大教授。25年より日本に定住し,東大講師などをつとめる。昭和27年2月12日死去。56歳。没後に「日本への遺書」が刊行された。江蘇省出身。名は熾(しき)。

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百科事典マイペディア 「陶晶孫」の意味・わかりやすい解説

陶晶孫【とうしょうそん】

中国の作家。江蘇省無錫(むしゃく)生れ。日本で育ち,九州帝大医学部卒業後,郭沫若らの創造社に参加。1929年帰国。日中戦争中は日本文学報国会が開催した大東亜文学者大会に関与。1950年より日本に定住。《音楽会小曲》(1925年)のほか日本文集《日本への遺書》(1952年)などがある。

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