陶山書院(読み)とうざんしょいん

世界大百科事典(旧版)内の陶山書院の言及

【書院】より

…以後大小の書院が全国各地に簇生(そうせい)し,18世紀初葉には593(当時の郡県数は329)に達し,郷校に代わって学問・道徳実践の修行と先賢および先烈の崇徳報功の教育・教化の場として国民教育上重要な役割を果たした。礼安の陶山書院(李退渓),海州の紹賢書院(李栗谷)が著名。しかし反面,所属の儒生や書院の奴婢となって軍役を避ける者の淵叢となり,かつ朋党に加担して横議をこととし,しかもいたずらに濫設するなど弊害が続出し,1644年以後数次にわたり禁令を発したが効果は上がらず,ついに大院君政権下の1871年には47書院(うち祠20)を残し撤享撤額した。…

【李退渓】より

…しかし,たび重なる任官の命を拒めず,丹陽,豊基の郡守,成均館大司成等に任じ,豊基郡守のときには,朝鮮最初の賜額書院である紹修書院を実現させた。59年帰郷し,翌年陶山書院を建て,以後は学問と後進の指導に従事した。彼の学問は敬を重視し,徹底した内省を出発点とするもので,この立場から朱熹(しゆき)(子)の理気論を発展させ,理自体の動静(運動性)を明言し,〈四端七情〉について理気の互発を主張した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」