阿部忠秋(読み)アベタダアキ

デジタル大辞泉 「阿部忠秋」の意味・読み・例文・類語

あべ‐ただあき【阿部忠秋】

[1602~1675]江戸初期の老中武蔵国おし城主松平信綱らとともに将軍徳川家光家綱補佐

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朝日日本歴史人物事典 「阿部忠秋」の解説

阿部忠秋

没年:延宝3.5.3(1675.6.25)
生年:慶長7.7.19(1602.9.4)
江戸前期の近習出頭人,老中,下野壬生(栃木県壬生町),武蔵忍藩(行田市)藩主。豊後守。旗本阿部忠吉長男。母は松平康高の娘。江戸生まれ。幼少から徳川家光に仕え,膳番,小姓組番頭などを歴任しながら出世寛永3(1626)年には1万石。同6年に1万5000石。10年松平信綱や従兄の阿部重次らと六人衆に任命され,近習出頭人として幕政参画,以後次第に土井利勝ら秀忠以来の老中を棚上げしながら,家光政権の確立に尽力,幕政の中心的存在となる。同年老中並,12年壬生藩主となり2万5000石,同年10月老中に進み後31年間在任。同16年忍に移封5万石。この前後に江戸周辺の城に家光政権の老中らが入城,彼らが政治的にも軍事的にも幕府を支える体制を確立。正保4(1647)年6万石。慶安3(1650)年家綱の傅役。翌年家光が死去すると,松平信綱と幼少の将軍家綱をもり立て幕政を運営。しかし酒井忠清ら門閥譜代層が幕政に進出し,次第に家光以来の政治理念の変更を余儀なくされ,寛文2(1662)年僚友の松平信綱が死去すると幕閣内で孤立。翌年8万石となるが,5年老病との理由から勤務を免除され,翌6年老中を辞職。11年致仕して養子の正能に家督を譲る。死後,遺言して日光の家光廟の脇に分骨を埋葬捨子を育てたり牢人を保護するなど,清廉篤実人柄人望が厚かった。才気走った松平信綱とよく比較され,信綱をたしなめる逸話が多い。<著作>『関ケ原記』<参考文献>林亮勝「松平信綱と阿部忠秋」(『大名列伝』6巻),朝尾直弘「将軍政治の権力構造」(『岩波講座日本歴史』10巻),『埼玉県史』通史編3,藤井譲治『江戸幕府老中制形成過程の研究』

(根岸茂夫)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿部忠秋」の意味・わかりやすい解説

阿部忠秋
あべただあき
(1602―1675)

江戸前期、徳川3代将軍家光(いえみつ)、4代将軍家綱(いえつな)時代の老中。武蔵(むさし)国忍(おし)城主(8万石)。酒井忠勝(ただかつ)、松平信綱、酒井忠清らとともに将軍政治の基礎固めをした重要人物の一人。譜代(ふだい)の臣徒頭(かちがしら)(のち大番頭)阿部忠吉(ただよし)の次男として江戸に生まれる。通称小平次(こへいじ)。従(じゅ)五位下・豊後守(ぶんごのかみ)、のちに従四位下、侍従に昇る。1611年(慶長16)9歳で世子(せいし)家光の小姓(こしょう)として近侍、家光が将軍となると禄(ろく)を増され、1632年(寛永9)大御所秀忠(ひでただ)没後には、信綱、堀田正盛らとともに老中に次ぐ「六人衆」の一人として登用され、まもなく老中に加えられ幕政に参画した。家光没後は幼将軍家綱を助け、幕府機構の整備に努めた。その篤実、朴訥(ぼくとつ)な人柄は世人に敬愛された。数十人の捨子を育てたことなどは、その人柄を示している。

[林 亮勝]

『林亮勝著「松平信綱と阿部忠秋」(『大名列伝』所収・1967・人物往来社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「阿部忠秋」の意味・わかりやすい解説

阿部忠秋 (あべただあき)
生没年:1602-75(慶長7-延宝3)

江戸前期の譜代大名。老中。武蔵忍藩主。徳川家光の小姓,小姓組番頭となり,1624年(寛永1)遺領を継ぐ。33年松平信綱らとともに六人衆の一人となり,同年老中,35年加判の列に加えられ,下野壬生2万5000石を領した。39年武蔵忍5万石に転封。その後もたびたび加増され8万石を領した。66年(寛文6)老中を辞し,71年隠居。家光・家綱期の幕政に深く参与した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿部忠秋」の解説

阿部忠秋 あべ-ただあき

1602-1675 江戸時代前期の大名。
慶長7年7月19日生まれ。阿部忠吉(ただよし)の長男。徳川家光に小姓としてつかえ,寛永10年松平信綱らとともに六人衆(若年寄)となり,幕政に参与,12年老中。同年下野(しもつけ)(栃木県)壬生(みぶ)藩主,16年武蔵(むさし)忍(おし)藩(埼玉県)藩主阿部家初代となる。8万石。延宝3年5月3日死去。74歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿部忠秋」の意味・わかりやすい解説

阿部忠秋
あべただあき

[生]慶長7(1602).江戸
[没]延宝3(1675).5.3. 江戸
江戸時代初期の大名。慶安4 (1651) 年老中となり,幕政に重きをなし,3,4代将軍を補佐した。

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367日誕生日大事典 「阿部忠秋」の解説

阿部忠秋 (あべただあき)

生年月日:1602年7月19日
江戸時代前期の大名
1675年没

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世界大百科事典(旧版)内の阿部忠秋の言及

【忍藩】より

…33年代官で忍城番も務めた大河内久綱の子で老中の松平信綱が3万石で入封し民政の充実に尽くした。信綱は39年島原の乱鎮圧の功により6万石で川越城に転じ,同年老中阿部忠秋が下野国壬生(みぶ)城から5万石で入封,家光・家綱に仕えて加増され8万石となった。71年(寛文11)養子正能は実父の遺領1万石を上総国で加増され9万石を領し老中も務めた。…

【譜代大名】より

…そのため,外様大名に比較して転封(国替)が著しく,しかもその所領は天領や旗本領との間に統廃合,切替えが行われたため,著しく分散知行化(非領国型)するに至った。例えば1664年(寛文4)武蔵忍(おし)藩の所領は,老中阿部忠秋の所領であったが,その所領高8万石は,武蔵のうち埼玉(35ヵ村),大里(31ヵ村),秩父(27ヵ村),足立(13ヵ村),幡羅(2ヵ村),男衾(9ヵ村)の6郡のほか相模三浦郡(8ヵ村),上野新田郡(7ヵ村)に存在した。幕府は親藩とともに譜代大名といえども,世嗣断絶ないし幕法違反の場合は改易し,幕藩体制の維持につとめた。…

※「阿部忠秋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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