阿蘇(市)(読み)あそ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿蘇(市)」の意味・わかりやすい解説

阿蘇(市)
あそ

熊本県北東部にある市。2005年(平成17)、阿蘇一の宮町、阿蘇町、波野村(なみのそん)が合併、市制施行して成立。市の南境に阿蘇山と外輪山が連なり、市域は、その北麓の標高700~850メートルの緩傾斜面および阿蘇谷平坦地に展開し、阿蘇くじゅう国立公園の指定域。中央部をJR豊肥(ほうひ)本線と国道57号が横断、57号からは北へ向かってやまなみハイウェイ(主要地方道)、国道212号が、南へ向かって同265号が分岐する。阿蘇神社(阿蘇社)が鎮座する宮地(みやじ)は、交通の要所で市街地が発達、当市および阿蘇郡の行政・教育、商業の中心地となっている。

 中通(なかどおり)古墳群の被葬者は、のち阿蘇社を祭祀した在地有力者に繋がるとみられる。阿蘇社は健磐龍命を主神とする阿蘇十二神を祀り、健磐龍命の直系子孫を称する阿蘇氏(阿蘇大宮司家)が社家を主宰。11世紀後半には、阿蘇一郡を荘園化した山城安楽寿院(あんらくじゅいん)領阿蘇荘(阿蘇本社領)が成立し、阿蘇氏が社領を統轄する荘官も兼務した。その後阿蘇氏は未開地を開発して在地領主化。鎌倉時代、北条氏が阿蘇社領の預所職・地頭職を得るが、元弘の変の功績により、阿蘇氏が後醍醐天皇から阿蘇郡本社領一円支配を認められた。以後、阿蘇氏は肥後国の有力国人として在地武士らを率いて活動。しかし、戦国時代末期、島津氏の肥後国進出によって衰え、阿蘇社の祭祀も衰退した。近世加藤清正が阿蘇氏に知行を与え、社家と祭祀を復活。その後熊本藩主となった細川氏も阿蘇社の祭祀興行を保証し、門前町の宮地町も繁栄。宮地の西方に位置する内牧(うちのまき)には天正期(1572~1592)に内牧城があり、阿蘇氏家臣の辺春(へばる)氏が在城した。同城は島津氏に攻められ落城、加藤清正の時に改修されたが、一国一城令で破却。のち城跡には御茶屋が建てられ、熊本藩主が参勤交代の時の宿泊所となる。内牧には会所が置かれ、在郷町が形成された。

 阿蘇五岳をはじめ、世界最大級のカルデラや広大な草原など、豊かな自然に恵まれた県内最大の観光地で、観光産業が基幹産業。温泉センター、キャンプ場などの施設が多数あり、内牧地区は温泉街として阿蘇観光の基地となっている。観光のほか、平坦地では稲作、山間丘陵地では高冷地野菜の栽培、赤牛飼育などが行われている。阿蘇神社の神殿(3棟)、楼門などは国指定重要文化財。阿蘇神社とその北側に位置する国造神社(こくぞうじんじゃ)で行われる御田植神幸式などの神事は「阿蘇の農耕祭事」の名称で国指定重要無形民俗文化財。中江(なかえ)の荻(おぎ)神社の春秋例祭で奉納される中江の岩戸神楽(いわとかぐら)は国の選択無形民俗文化財。役犬原(やくいぬばる)の霜神社(霜宮)では、8月19日から2か月にわたって火焚殿で火焚乙女が火を燃やし続ける「火焚神事」が行われる。黒川(くろかわ)の西巌殿寺(さいがんでんじ)は、古くは比叡山延暦寺末で、盛時には36坊52庵の大寺院群が栄えたといい、数多くの文化財を保有する。面積376.30平方キロメートル(一部境界未定)、人口2万4930(2020)。

[編集部]

〔2016年熊本地震〕2016年の熊本地震では、4月16日1時25分の地震で震度6弱を観測、阿蘇神社の楼門、拝殿などが損壊するなど、大きな被害に見舞われた。この地震による市内の被害は、関連死を含め死者20名(うち、警察の検視によって確認された死者はない)、重傷者9名、住家全壊108棟、公共建物の損壊67棟にのぼり、罹災世帯数は977を数えている(平成30年5月11日『平成28(2016)年熊本地震等に係る被害状況について【第272報】』熊本県危機管理防災課ほか)。

[編集部]


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