関鉄之介(読み)せきてつのすけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「関鉄之介」の意味・わかりやすい解説

関鉄之介
せきてつのすけ
(1824―1862)

江戸末期の水戸藩士。名は遠、士任と号す。城下水戸の生まれ。藩校弘道館(こうどうかん)に学んで、1856年(安政3)北郡奉行所(ほくぐんぶぎょうしょ)に勤め、大子(だいご)郷校の建設と農兵の組織などに努める一方、尊攘(そんじょう)運動に身を挺(てい)する。58年安政(あんせい)の大獄で、尊攘派志士への弾圧が始まると、大老井伊直弼(なおすけ)の暗殺計画を同志の高橋多一郎、金子孫二郎らと謀った。60年(万延1)3月、実行隊長として桜田門外に井伊を暗殺。のち逃れて常陸(ひたち)(茨城県)袋田村の豪農桜岡家、高柴(たかしば)村の益子(ましこ)家などにかくまわれるが、そこからさらに逃走の途中、越後(えちご)(新潟県)雲母(きら)温泉で捕らえられ、江戸で処刑された。著書に『西海転蓬(てんぽう)日録』『南遊遣悶(けんもん)集』などがある。

[佐久間好雄]

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朝日日本歴史人物事典 「関鉄之介」の解説

関鉄之介

没年:文久2.5.11(1862.6.8)
生年:文政7.10.17(1824.12.7)
桜田門外の変で現場の指揮を取った尊攘派水戸藩士。諱は遠,字は士任,鉄之介と称し錦堆,丹楓と号す。変名は三好貫一郎。父関昌克,母小泉氏の長男。水戸生まれ。家禄10石3人扶持。嘉永6(1853)年,黒船来航時に浦賀,横浜を視察,安政2(1855)年に家督相続,5年,戊午密勅の廻達のため高橋多一郎らの指示で長州などを巡歴し決起を促した。安政の大獄の進行により大老井伊直弼暗殺を高橋らと企画,上奏のために上京,6年蟄居,翌年2月脱藩,その際,白昼,蟄居屋敷を脱走したという。万延1(1860)桜田門外の変で井伊直弼を暗殺ののち,挙兵のため上坂したが未発,文久1(1861)年逮捕されて江戸で刑死。

(吉田昌彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「関鉄之介」の解説

関鉄之介 せき-てつのすけ

1824-1862 幕末武士
文政7年10月17日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。安政の大獄をおこした大老井伊直弼(なおすけ)の暗殺を計画し,指揮者となって実行(桜田門外の変)。のち越後(えちご)(新潟県)で捕らえられ,文久2年5月11日江戸で処刑された。39歳。名は遠。字(あざな)は士任。号は錦堆,丹楓,蘭室,桜園。変名は三好貫之助。著作に「南遊遣悶(けんもん)集」。

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367日誕生日大事典 「関鉄之介」の解説

関鉄之介 (せきてつのすけ)

生年月日:1824年10月17日
江戸時代末期の尊攘派水戸藩士
1862年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の関鉄之介の言及

【桜田門外の変】より

…水戸藩内では,勅諚を返上すべきだとする鎮派と,これに反対する激派との間に,激しい政争がおこなわれたが,ついに鎮派の主張が通った。激派の水戸藩士金子孫二郎,高橋多一郎,関鉄之介らと,薩摩藩士有村次左衛門との間では,安政の大獄がはじまったころから,井伊の暗殺計画がねられていたが,水戸藩論が勅諚返上に傾くと,この計画は急速に具体化した。それによれば,水戸藩士50人は,井伊の襲撃と横浜の外国商館焼打ちとを実行し,同時に薩摩藩士3000人が京都の警衛にあたり,東西相応じて幕府の改造を断行するというものであった。…

※「関鉄之介」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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